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「バラ色」 No.801

謹んで新年のお慶びを申し上げます。重ねて、本年も変わらぬご愛読と、倍旧の叱咤・ご鞭撻を賜りますよう、心からお願い申し上げます。

それにしても、昔は子供に限らず大人でも感じた正月のソワソワ感が年々薄らいでいると周囲の多くが口にする。元旦の食卓に「おせち料理」は辛うじて乗ったものの、どうやらそれは、年末のスーパー店頭で見た、彩りが鮮やかすぎて全然美味しそうじゃないそれと同一商品であることも、最近の正月のシラケ気分を増幅させている気がする。

「おせち料理」のメニューには、数の子=子孫繁栄、田作り=豊作祈願、栗きんとん(金団)=金運など、各々「意味」があることはご存知の通りだ。例えばエビは、長いヒゲと腰が曲がっていることから「長寿」への願いが込められている。

そこで新年早々の出題で恐縮だが、「葡萄色」と書いて何と読む? 「ブドウ色」はいわば現代風の読みで、日本古来のそれは「エビ色」である。日本原産の山ブドウ「エビヅル(もしくはエビカズラ)」が、中国伝来の葡萄に似ていたことから、「葡萄蔓(えびづる)(もしくは葡萄葛(えびかずら))」というように「葡萄」と書いて「エビ」と読まれていたからだ。紫を帯びた赤いブドウの実が、生きた海老の色に似ていたことに由来する。伊藤左千夫も名作「野菊の墓」の中で、「野葡萄」と書いて「えびづる」とルビを振っている。

「歌は世に連れ」だけでなく、「色」の名も世に連れて変わるという話をもう一つ。12色以上の例えば色鉛筆の中から「肌色」が消えてからもう10年余も経っていることを、年配世代の多くはご存知ないかも知れない。メーカーによって呼称は違うが、「肌色」はいま「ペールオレンジ(薄いオレンジ)」とか「うすだいだい」と呼ばれる。

きっかけは1989(平成10)年、ある母親が読売新聞に寄せた一通の投稿だった。「私にはケニア人の夫との間に娘がおり、娘の肌は『はだいろ』ではありません。ある日、絵を描いていた娘が、悲しそうな表情で聞いてきました。『なぜ私は肌色じゃないの?』と」(要約) 投稿主は文具メーカーに色名変更を求める文書を送り、話題が各メーカーに広がった結果、「肌色」の呼び名は消えた。よい判断と思う。なのに。経産省認定による日本工業規格(JIS)の「慣用色名」(269色)には、「肌色」がまだ残る。

他方、時代は変わっても変えたくない色の名もある。幸せな未来を象徴する「バラ色」だ。安倍カラーに欠けているなら、自らの手で今年を「バラ色」に彩るしかなかろう。

原点回帰 No.802

ある個人ブログで誰かが書いていた。「最近、正月らしさが薄れてきた最大の理由は、元日から営業している店が増え、街の雰囲気が普段と変わらなくなってきたからではないか。5月の連休や夏休みと同様、毎日普通に買い物や遊びに出掛けられるのだから、正月らしさをほとんど感じられなくて当然だ」(要約)と。

同感だと頷きながら読み終わった後、掲載日付を見てもう一度驚いた。「2006年1月某日」となっていたからだ。日本の正月を巡る平日感は、もう10年余も前から始まり、状況は進行こそすれ、まったく変わっていないのだ。

今年も、百貨店こそ多くは「元日休み、2日初売り」にしたが、イオンをはじめとする大手スーパーや、ヨドバシカメラなど大型小売店は、元旦から平常営業を始めた。中には、福袋販売の混乱を避けるためか、開店時刻を平日より早めた店もある。

そんな中だからこそ注目されたのは新年早々、百貨店最大手・三越伊勢丹が、来年は主要店舗では正月三ガ日を休み、4日を初売りとする考えを明らかにしたことだ。

同社はすでに昨年から、首都圏店舗の一部は正月2日から開けるが、多くの店舗では3日初売りに変えていた。来年はそれを、業界の流れに逆らってさらに遅らせるというのだ。大西洋社長はその狙いを「従業員の勤労意欲の向上」にあると言う。

大西社長は大学卒業前、大手ファミレスから得ていた内定を返上し、伊勢丹への入社を決めた。理由は「伊勢丹は百貨店業界で逸早く週休2日制を導入するなど、労働条件が良かったから」だ。大西氏はその考えを、自身が経営トップになった現在も持つ。「百貨店の販売員の仕事はとても大変。会社はまだそれに応え切れていない」とする大西社長は、ネットフリーマガジン「PARTNER」でこう話す。

「売り上げが落ちてくるとコスト削減のために人件費に手を付けるのが一般的だが、そうではなく、人件費を上げ、生産性を上げて売り上げ・利益を上げるのが理想。とくに百貨店は人の産業なのだから、人への投資を避けていては悪循環から脱け出せない。社員には、休む時はきちんと休んでもらう充電期間がとても大事だ」(要約)

正月営業だけではなかろう。売り上げ至上主義に走る結果、初売りと同時に「冬物バーゲン」に突入し、ブランド価値を自ら毀損するような経済活動が、決して正しいとは思えない。正月くらいは休む ―― 「当たり前」への原点回帰で活力を取り戻したい。

琴線に触れる No.803

クリスマスの「ジングルベル」と同様、正月には筝曲(そうきょく)「春の海」を、テレビやショッピングセンターでの季節的定番BGMとして、よく耳にしたのではないか。

「春の海」は筝曲家・宮城道雄が1929(昭和4)年末、翌年の宮中歌会始のお題「海辺の巌」に合わせて作曲した。年始の短期間に集中的に聞かされると少々うるさいが、静かに聞けば、日本人の心に染み込むいい曲だ。まして、たまに聞く琴の音色だから。

「琴線に触れる」という表現がある。「読み手や聞き手に感動や共感を与える」の意味(三省堂「新明解国語辞典」)。ただ、文化庁「国語に関する世論調査」(平成19年度)によるとそう正しく理解している人は、一番多いけれど37.8%止まり。「怒りを買ってしまうこと」と思っている人が35.6%と意外に多い。後者は、目上の人などを怒らせた際などに用いる表現「逆鱗に触れる」と混同されたのだろう。

混同と言えば、楽器の「筝(そう)」と「琴」の違いも、一般には混同されている。「筝」は、「柱(じ)」と呼ばれる弦の音階を出すための可動式の駒を、その曲で使う音階の場所にあらかじめセットしたうえで演奏する。これに対し「琴」は、スチールギターのように、指で弦を押える場所を変えることで音を出す。ということは、私たちが普段「琴(こと)」だと思って見ている楽器は実は「筝」で、後者のそれは「琴(きん)」と呼ばれる別物なのだ。

そもそも「琴(こと)」は弦楽器の総称であり、その中の最もポピュラーな「筝」が「こと」と呼ばれるようになった。それなら「筝」をそのまま一般名称に使えばよさそうだが、「筝」という漢字が国の常用漢字に入っていない事情が絡み、本来は正しくない「琴」が「筝」の楽器名に当てられ、呼び方も「こと」として浸透・定着したらしい。

時代と共に変わったのは、琴の音色もまた然りだ。かつて琴糸は絹糸を撚って作られたが、現在は99%が化繊糸テトロンである。テトロン製の琴糸は丈夫で、強く張ることができるため、強く、しっかりした音を出せる。半面、余韻が物足りない。これに対し絹の琴糸が生む音色は、柔らく、のびやかだそうだ。そんな音色の違いが、聞く人が聞けば、耳に ―― 否、心に、微妙な響きの違いになって届くのだろう。

盛田昭夫・井深大両氏に誘われてソニーに入社し、1982(同57)年に社長に就任した大賀典雄氏は、社内で口癖のように言っていたそうだ。「心の琴線に触れるようなモノづくりをしよう」

指揮者・声楽家としても知られた、いかにも大賀氏らしい言葉だ。

嫌われる勇気 No.804

ネットの図書館横断検索システムで探すと、愛知県図書館では31人が借り出しを予約中。名古屋市立33図書館では延べ568人が予約に並んでいた。本の題名は「嫌われる勇気――自己啓発の源流『アドラー』の教え」(心理学者・岸見一郎、編集者・古賀史健共著)。初版は2013年12月で現在41刷、すでに100万部超。今月からは本書を原案にしてアレンジした刑事ドラマ「嫌われる勇気」(主演・香里奈)の放送(フジテレビ系列)が始まったから、部数はさらに伸びそうだ。

精神医学界では世界的に著名な学者が3人いる。第一人者は「精神分析の創始者」ジークムント・フロイト。「人間の行動には、幼児期に受けた心的外傷「トラウマ」など必ず心理的な裏付けとその影響があり、それはほとんど『無意識』に因る」とするフロイトの分析は、現在もカウンセリングに広く用いられている。2人目はフロイトの弟子カール・グスタフ・ユング。人種や民族、歴史までも超えた、個人の無意識だけでは説明できない人間の心の奥に潜む「集合的無意識」の存在を説いた。

3人目が、フロイトの共同研究者だったアルフレッド・アドラーである。ただし、アドラーが研究の末に辿り着いたのは、フロイトとは真逆の考え方だった。

例えば「幼児期のトラウマが、その後の人生に暗い影響を与える」としたフロイトに対し、アドラーはこう考える。「子供時代にイジメを受けたから他人とコミュニケーションを取れなくなったのではない。他人とコミュニケーションを取りたくないから、子供時代のイジメのせいにするのだ」 「引きこもり」も同じで、「不安だから部屋の外に出られないのではなく、外に出たくないから、理由を不安のせいにしている」と。

ドラマ「嫌われる勇気」でも、登場人物にアドラーの主張をこう語らせている。「いつまで経っても自分が変われないのは、自分で『変わらない』という決心をしているから。日常生活に不満があっても、現在の『ダメな自分』のほうが楽で安心だから、変えようとしないだけ。つまり、あなたの不幸は、あなた自身が選んだ結果なのです」

自分はなぜこんなダメ人間なのか ――人々の多くが内心に抱く劣等感こそ、自分を成長・進化させる大事な要素だとアドラーは言う。「健全な劣等感は、他人との比較からではなく、理想の自分との比較から生まれる。自由とは他者から嫌われること。嫌われることを恐れない、新しいライフスタイルを選ぶ勇気=嫌われる勇気を持とう」