日刊紙「信用情報」で人気のコラムを毎週お届けします

失敗の本質 No.856

録画したままになっていたNHK/BS「戦慄の記録 インパール」(2017年12月放送)を、たまたま「建国記念の日」の休日に思い出して、観た。

1944(昭和19)年3月、日本軍がビルマ(現ミャンマー)から9万人の将兵を注ぎ、イギリス軍が拠点を置いたインド北東部を3週間で攻略することを企図した「インパール作戦」は、結果として、太平洋戦争で最も無謀な作戦だったとされる。

インパールへ辿り着くまでに、日本軍は最大川幅600mのチンドウィン河を渡り、標高2000m超のアラカン山系を越え、470㎞余を踏破しなければならなかった。結果を言えば、インパールに辿り着いた者は1人もいないまま、約3万人が命を落とした。

さほど無謀な作戦が、なぜ決行されたのか? ―― それは、かつて盧溝橋事件を指揮した牟田口廉也中将がビルマ方面軍の第15軍司令官に昇進したことに起因する。彼が示したインパール進攻作戦に対しては、当初は軍内にも「補給が困難」とする反対意見が多かった。しかし牟田口司令官は「消極的だ」と反対論の師団長3人を次々に更迭。最後は、「補給はまったく不可能」と明言した者に対して全員が「大和魂はあるのか。卑怯者!」と怒鳴りつけるなど、従わざるを得ない空気だったという。

短期決戦の予定だったから、兵士らは3週間分の食糧しか持たされていなかった。しかし作戦は難航。食糧が不足しても牟田口司令官は作戦中止の進言を聞き入れず、困窮を訴える部下たちを「臆病者」と罵るだけ。作戦の失敗はすでに明々白々だったにもかかわらず中止しない前線に、大本営がようやく撤退命令を出したのは4カ月後だった。

しかし、遅きに失した。病気や飢餓による死者が相次ぎ、日本軍の撤退路は死体で埋まった。のちに「白骨街道」とまで呼ばれることになった所以である。

合理性より人間関係や精神論で意思決定がなされる組織、その場の“空気”で議論が支配される状況、役職上位者の過大な自己評価がもたらす判断の誤り ―― 組織において問題となる根っこは、残念ながら今も昔も変わらない。

戸部良一、寺本義也ら戦史研究家6人による共著「失敗の本質 ―― 日本軍の組織論的研究」(中央公論新社、1991年初版、2017年65刷)もまた、現代企業の組織に通底する問題点を指摘している。筆者らが「無謀な戦争で傷つき斃(たお)れ、戦後の平和と繁栄の礎となった人々に捧げる」と「まえがき」に綴った思いを含め、できれば一読を、と添えたい。