2015年11月のレーダー今週のレーダーへ

錯覚 No.744

限られた人生なのだから、物事をネガティブに考えるより、ポジティブに捉え、明るく楽しく暮らせたらそれに越したことはない…とは思うけれど、ポジティブ思考が昂じて自己愛が激しい「自分大好き人間」が、最近多過ぎはしないか?

心理学者・榎本博明氏によれば、その原因はインターネット社会の進展にある。「かつてなら実績や能力からして論じる資格がないとして相手にされなかったような素人でも、専門家気取りで上から目線の論評をすることができる。このような発信権を手にしたことで、現代人の『自分大好き』度合いは肥大化し、その万能感の幻想が傍若無人の態度を助長している」(著書「病的に自分が好きな人」、抜粋・要約)

そういう「自分大好き人間」たちにも、聞いてみたいことが1つある。「あなたは自分の声を好きですか?」と。録音された自分の声を初めて聞いた時の強烈な違和感を、いまでも忘れない。「えっ、こんな変な声?」 普段聞き慣れている自分の声との違いに驚く。調査によれば90%が、録音された自分の声を「嫌い」と答えている。

自分が知っている自分の声は、口から出た空気振動が鼓膜に届く「気導音」だけではない。頭蓋骨を伝わり内耳に直接届く骨伝導による「骨導音」も混じっており、それを自分の声として聴いている。しかし、他人には空気振動の「気導音」しか聞こえていないから、それをそのまま録音した「変な声」こそ、本当の自分の声なのだ。

「自分は写真映りが悪い」などと思っている自分の顔も、普段は鏡で見ている、実は左右が反転した「虚像」を見慣れていることに因るギャップであり錯覚であることを、昨今のナルシスト的「自分大好き人間」は、さて理解できているのかどうか。

ただ、デジタル時代はいろんなイタズラも起きる。携帯電話で話していて届く相手の声や自分の声が、肉声ではなく合成音声であることは案外知られていない。

生の声をそっくりデジタル変換してデータ送信すると通信量が膨大になって、電波に乗せられないからだ。そこで声の中から抽出した「音韻情報」と、電話機にあらかじめ登録されている約2500種の「音の辞書」から本人の声に最も近い音を選んで組み合わせ、合成音声を生成してやりとりする方式が採られている。果たしてそれを「会話」と呼んでよいのかどうか、味気のない「電磁的交信」に過ぎないのではないか。

文明・科学の目覚ましい進歩は、やはり良いことばかりでもなさそうだ。

「青田売り」 No.745

駅まで徒歩7分。近くのショッピングセンターへは3分 ―― 都心部へ乗り入れている私鉄の郊外駅近くで、分譲マンションの建設計画が進められている。工場跡地に、260戸、11階建てマンションが建つ。竣工は平成29年1月、引き渡しは同2月だが、販売開始は今月下旬。新聞には「ショールーム開設」のチラシがすでに折り込まれている。日本ではどこでも見られるマンションの、完成前の「青田売り」である。

稲が伸び、穂がつき始める夏の盛りは、かつて貧しい農家にとっては貯蔵の自家用米が底をつく1年で最も苦しい時期。そこで米商人が、稲の成長具合から収穫量を予想し、できるだけ安値で先買いするのが「青田買い」、農家側から言えば「青田売り」。「せんすべもなくてわらえり青田売」と俳人・加藤楸邨は貧農の嘆きを詠んだ。

旭化成建材による杭打ち工事の不良、データ偽装建物は、全国3040件に及んだ。不正に手を染めた原因として、記録用紙が雨に濡れたとか、機械に不具合があったとか、記録を取り忘れたなど、担当者ベースでの過誤や怠慢を言い訳に挙げているが、果たしてそうなのか? また、工事の不正や手抜きは同社に限った話なのか?

事件の背景には、マンションの「青田売り」という、日本独得の習慣に遠因が潜むと、住宅ジャーナリスト・櫻井幸雄氏が指摘している(毎日新聞10月31日付ほか)。

世界各国では、建物完成後に販売が開始される「完成売り」や、建物の外枠が完成後、購入者の希望で好みの内装・設備工事に取り掛かる段階で販売される「スケルトン売り」が主流。しかし日本人には、「完成売り」「スケルトン売り」は不評なのだという。「売り残り物件ではないのか?」という疑心暗鬼が働くためらしい。

加えて「青田売り」は購入者にも利点があるからだと櫻井氏は言う。①契約後、引き渡しまで1~2年の猶予があるため、その間に資金を準備すればよい ②良い物件を早い者勝ちで押えられる ③場合によっては未入居のまま転売できる、などの理由だ。 一方、販売会社や建設会社は、契約した竣工日=工期や分譲価格=工事費用は何としても守らなければならない。その強いプレッシャーが、予想外の事態が起きた際、工事の手抜きやデータ偽装に走る要因になりかねないと櫻井氏は指摘する。

不正は断じて許されない。ただ、その背景に日本人独得の物の考え方があるとするなら、それもまた見直されなければならないことかも知れない。

目を見合う No.746

一昨日は夕飯に何を食べましたか? 紙面から目を離して思い出してください。―― 記憶力テストではない。どうせ覚えていらっしゃらないことは分かってるし。

でも、自分の記憶力の低下を、そんなに気に病む必要はないらしい。人間は見聞きした出来事を脳の海馬で自身の興味や関心のフィルターにかけたうえで記憶するが、覚えている時間は、実は大人も子供も大差がない。ただ、子供が「大昔」と思う例えば「1年前」は、大人にとっては「つい最近」。その最近のことさえ覚えていない自分に、大人は必要以上のショックを受けてしまうものらしいからだ。

余談が過ぎた。今日のテーマは「記憶力」ではない。一昨日のメニューを聞かれて記憶を遡っている時、さて目の動きはどうだったか?だ。

何かを考えている時、人は視線が無意識に「上」を向く。それも、過去の出来事を思い返す時は「左上」、将来のことを考えている時は「右上」、嘘をついている時も「右上」を見る習性がある。読心術では、とりわけ目の動きを観察しているのだそうだ。

「目は口ほどに物を言う」の通り、人は相手の目の動きから様々な印象=情報を受け取る。「目が笑っていない」のは、普通に笑う時は目と口が一緒に動くのに対し、作り笑いは口だけが動いてぎこちない印象を与えるからだ。それなら目と口を同時に動かせばよいかと言えば、自然な笑いというのは、口が先に、目がわずかに後から動くよう出来ているため、その微妙な時間差を素人が演じてダマすのは簡単ではないらしい。

目が無意識に心を映すのなら、相手の目の動きを読み取ったうえでコミュニケーションを図ることも可能だ。相手が視線をたびたび逸らすのは「早くこの場を去りたい」と思っているサイン。瞬きが多いなら緊張状態もしくは不安状態にあるかのどちらか。話し相手の目が輝いて見えてきたら、自分に興味や関心を抱いてくれている証拠だから、そう思えたら、ビジネスでもプライベートでも「ここ一番」と押せば、願いが成就する確率大だそうだ。

さて ――。ブログやフェイスブック、インスタグラムなど、多様な方法で各自の思いや考えを自由に発信できる時代になった。半面、人と人が互いの目を見、言葉を交わすことで養われる観察力や相互理解力が、知らず知らずに鈍化=退化していないか。そういう社会の行く末を、昨今のテロ事件の悲惨なテレビ映像を見て、案じる。

「よそほいの花」、散る No.747

「あら、アップを褒められるなんて、私、侮辱されたみたいよ。だって、アップ女優って、昔から美しいだけの大根女優ってことに相場が決まってるのじゃない?」 昭和24年、雑誌「映画ファン」の対談で漫画家・富田英三から「『青い山脈』でのあなたのアップに見惚れた」と言われた彼女は、時にそう呼ばれて酷評されることもあった「大根女優」という言葉を自ら口にし、茶目っ気たっぷりに微笑んだという。

原節子さんが、2カ月以上も前に亡くなっていた。

昭和38年12月、尊敬し、相愛の間柄にあったとも噂された小津安二郎監督が死去。その通夜に、「原節子」ではなく本名の「會田昌江」と記帳して参列した原さんは、その席で号泣する姿を見せたのが公の場での最後。当時はまだ42歳、絶頂期の人気女優だったにもかかわらず、その日以来、引退の会見や声明もしないまま鎌倉の自宅に引き籠り、外に出ない生活を送っていた。95歳になっていらしたのだ。

なりたくてなった女優ではなかった。経済的理由から高等女学校を2年生で退学、義兄で映画監督の熊谷久虎宅にお手伝いさんとして同居していた時、熊谷氏の勧めで日活に入った。昭和10年のデビュー作のタイトル「ためらふ勿れ若人よ」が、もしかすると「本当は小学校の先生になりたかった」(「中央公論」32年11月号)という彼女の、背中を押したのかも知れない。その時の役名「節ちゃん」が、そのまま芸名になった。

それから28年間で「わが青春に悔いなし」(黒澤明監督)、「青い山脈」(今井正監督)、「晩春」「東京物語」(小津監督) など日本映画史を飾る101本に出た。が、ある時「その中で『これを見てください』という作品は?」と聞かれ、彼女はこう答えている。「それが全然ないんです。だから、映画館にお金を出して入ってくださる方にお気の毒で」

23年発行「映画スター自叙伝集」に寄せた一文に、彼女は題をこう付けた。「このままの生き方で ―― よそほいの花一つにしかざりき」 映画評論家・貴田庄氏は著書に書く。「彼女は、女優とは、見かけは派手に着飾ってはいるものの、かりそめの仕事に過ぎないと自覚していたようです。ここには、やがて散ってゆく花の一つにすぎないと、冷静に女優という仕事を見つめている原節子がいます」(「原節子 わたしを語る」)

誰もが彼女のような生き方をできるわけではない。ただ、日々を前のめりで過ごしている私たちに、ちょっと歩みを緩めてみる機会を、彼女は与えてくれた気がする。