コラム


 伝統に学びながら・・・  No.390
 「そうだ 京都、行こう」――もう15年も続いているJR東海の名キャッチコピーに、この季節になると心を揺り動かされる。今年のポスターのロケ地に選ばれたのは三千院だが、京都にはほかにも紅葉の名所が多い。ならば今年は、交通がやや不便なためかメディアに紹介されることが少ない洛北・鷹峰の光悦寺はいかがだろうか。

 日蓮宗大虚山光悦寺――寺でありながらそれらしい雰囲気があまりしないのは、ここは、本阿弥光悦が元和元年(1615年)、徳川家康から拝領した9万坪の土地に、本阿弥一族のほか尾形光琳の祖父・尾形宗柏や紙師宗二、筆屋妙喜、豪商茶屋四郎次郎、さらには金工、陶工、蒔絵師、紙屋、織物など各分野の名工たちを一堂に集めて作り上げた元々は「芸術村」で、寺になったのは光悦の没後だったからだ。当時の様子を伝える「鷹峰光悦町古図」によれば、町内には合わせて55軒が移り住んだとされる。

 「鷹峰住人は共同して茶碗を焼き、蒔絵をつくり、和歌巻下絵を製作した。ここにもし角倉与一が加わってくれたら、そこに生まれる総体のまとまりはどんなに完全であり華麗であろうか」と辻邦生は小説「嵯峨野明月記」で書いている。角倉与一も光悦と同様、全国で8人だけに授けられた御朱印貿易商であり、かつ文化人だった。

 つまり光悦は、本業の刀剣鑑定のほか貿易も手掛ける有力事業家だったと同時に、自身も書画、漆芸、作陶など幅広い分野で秀作を残した「マルチ・アーティスト」であり、さらに絵師・俵屋宗達はじめ才能ある者を支援育成する総合プロデューサーでもあったのだ。光悦が宗達と並び「琳派の創始者の一人」と評される所以はそこにある。

 日本の美術史に大きな足跡を残した「琳派」――尾形光琳によって完成されたのでそう呼ばれるが、「琳派」の始祖は光琳が生まれる80年前に没したとされる宗達であり、彼の才能を見出して育てた光悦である。生きた時代が大きく違うのだから、「派」とは言っても師弟関係で結ばれる「一門」というような成り立ちではない。師と仰ぐ先達の作品をまず徹底的に模写することによって、構図の取り方や色使い、タッチなどを学び、やがて自身の工夫で独自の作風を生み出し、地歩を各々固めていったのだ。

 「何事でも昔ばかり出来て此後出来ぬと申すは不自由の論」と、伝統を学ぶ中から新たな伝統を生み出す努力を求めた光悦。企業の経営にも通じよう。

 紅葉に染まる洛北を漫ろ歩きながら、自身を見つめ直す時間を持ってはどうだろう。

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