アメリカ人にとって「グランド・ゼロ」が「9.11」なら、北海道夕張市の市民にとっての「その日」は「10.16」である。 昭和56年10月16日午前0時、北炭夕張新炭鉱の海面下800m、坑口から3000m地点で、メタンガスの検知センサーが反応した。直ちに救護隊が出動し、34人を遺体で収容してなお作業中、ガスに火が着いて爆発、救護隊員もそのまま炎に包まれた。 坑内の避難所に空気を送りながら坑口を塞いで鎮火する方法を試みたが、火勢が治まらなかったため、会社は、延焼を防ぐ「最後の手段」を決断した。59人の「安否不明者」がまだ取り残されていたままの坑内への「注水」。 「お命を、いただきたい」――同意書に印をもらうため1軒1軒を回る当時の社長に家族は泣き崩れ、怒鳴った。「お前も一緒に入れよ!」 そして事故発生1週間後の23日午後1時、夕張の町にサイレンが鳴り渡り、注水が始まった。全市民が黙祷を捧げる中で。93人目の最後の遺体が収容されたのは163日後の翌年3月28日だった。 この事故が痛手になり夕張新炭鉱は結局、翌年に閉山。石油ショックに伴うエネルギー政策見直しで当時、復活機運にあった日本の石炭産業の「息の根」も止まった。 石炭は、唯一自給が可能なエネルギー資源として、日本経済の発展、戦後の復興を支えてきた。中でも良質な石炭が採れる夕張には最盛期で24もの炭鉱が生まれ、12万人が住んだ。それが、石炭産業の衰退とともに人々が去り、いま人口は1万3000人。 一気に崩れ落ちたあの摩天楼のように、何もなくなってしまった夕張。その復興を目指し、前市長は「観光立市」への施策を推し進めた。赤字を隠しながら借金を増やし続けたその手法には、たしかに問題と責任はあったろう。しかし、「あんな分不相応な観光施設ばかり造るから…」との批判は、「では夕張に、他にどんな手立てがあったのか」という問い返しへの、自信ある答案を持ってからにしたほうがよさそうだ。 弊紙本社勤務のT君は夕張に生まれ、24歳まで暮らした。父親はあの日、たまたま出勤の番方が違ったから災難を免れただけ。T君は、代々の墓参りで故郷に帰るたびに驚くそうだ。昔の建物の廃墟が、数年後、その廃墟さえ朽ち果てて土に還り、草木が生い茂る「原野」に戻って行っていることに。そう、「原野に」である。 そんな「夕張」のおかげで「今日の日本」があることを、私たちは忘れてなるまい。 |
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