コラム


「集団列車」 No.301
 「集団就職列車」第1号が青森駅から東京へ向かったのは昭和29年4月5日だった。乗っていたのは中学を卒業したばかりの少年少女622人。みんな就職先から支給された支度金で買った新品のコートを学生服の上にまとっていた。東奥日報はその光景を伝えた。「プラットホームに蛍の光が流れる。『しっかり頑張って』『元気でやれえ』と励まし合っていた人波が列車から離れると少女たちはみんなハンカチで顔をおおってしまった。ベルが鳴る。少年たちはほおを赤くし少女たちは涙の顔を上げた」

 硬い座席と不安で眠れぬ夜が明けると上野駅。見たことのない人の多さにまず驚いた。「歓迎」の旗を掲げた雇い主に引率されて2人、3人と「大海」へ。初日の東京見物では見るものすべてに感激し、食べたことのないご馳走に頬が緩んだ。しかし、楽しい1日が終わると、翌日からは試練の日々が待っていた。

 就職先はほとんどが中小零細の町工場や商店。住み込みで月3,000〜4,000円の賃金は、高卒11,560円、大卒17,179円という当時の初任給に比べてかなり低かった。しかも労働条件は過酷で、1日10時間以上働き、休みは月2日あればいい方。それでも彼らは働き続けることが重要だった。田舎の家族が仕送りを待っていたから。

 故郷とつながる上野駅が唯一の心の拠り所だったのだろう。「上野は俺(おい)らの心の駅だ くじけちゃならない 人生が あの日ここから始まった」――先日亡くなった井沢八郎さんが昭和39年に歌った「あゝ上野駅」が彼らの愛唱歌となった。都会や職場に馴染めない者が田舎の訛りを聞くために駅周辺を徘徊することもあった。悲喜こもごもを見てきた上野駅が「集団就職列車」の歴史を閉じたのは50年だった。

 終身雇用や年功序列とは無縁の「労働市場の底辺」を支えた彼らは「日本の経済発展の原動力」と言われる。また、「若くて貧しい独身労働者」から「豊かな家庭を持つ中流階級」へとステップアップしていく過程で様々なモノを買い、家も求めた。これによって多くの企業に潤いを与えた。高度経済成長を推進する役割も担った。

 今の15〜24歳の若者の失業率は6.2%。ハローワークに向かう姿は「集団求職列車」に乗り込むように見える。3月からは団塊世代の大量退職が始まり、「集団退職列車」が出発する。高度経済成長を支えた人たちの行き先は「豊かな老後」か。だが、ニートが篭っている「集団無職列車」は、目的地がないから、動き出せない。

コラムバックナンバー

What's New
トップ
会社概要
営業商品案内
コラム
大型倒産
繊維倒産集計