コラム


 布を仕立てるように  No.399
 作家の有吉佐和子氏は36歳のとき、前日に辞書で引いた英単語を再び調べている自分に気づき、記憶の衰えに愕然としたという。「それくらい、たいしたことじゃない」と笑って済ませるのは凡人の感覚だろう。この事実に彼女はひどくショックを受け、これを機に老いを究めようと決意して書き上げたのが、代表作「恍惚の人」である。

 米俳優のピーター・フォーク氏がアルツハイマー病に冒されているとニュースで知った。81歳である。いつもヨレヨレのコートを着た、風采の上がらない刑事が、洞察力と推理力、粘り強さで事件を解決するドラマ「刑事コロンボ」は彼の当たり役だった。テレビ賞の最高峰と言われるエミー賞を4度も受賞した名優である彼が、これまでにも何度か自宅近くを徘徊し通報される騒ぎを起こし、現在は人の見分けができない状態だと聞けば、熱烈なファンでなくても心に苦いものが残る。

 「うちのかみさんがね……」とコロンボ刑事のように周囲に話していたかどうかは知らないが、作家の城山三郎氏が妻との半生を綴りベストセラーになった「そうか、もう君はいないのか」(新潮社)の、創作メモにもなった手帳が先日見つかった。その中には、妻がガンを宣告されたときの様子や、亡くなった後に襲ってくる孤独感や寂寥感、さらに自分自身の老いに対する不安を吐露する箇所がいくつも見られるという。

 老朽、労害、老醜、老獪――「老」には常にマイナスのイメージが付きまとう。しかし、その老いについて精神科医の服部祥子氏はこう語る。

 「加齢は宿命的に心身の老化をきたし、どんな人も体力の衰えを感じ生気が失われていくことから免れ得ない。しかし生涯のそれぞれの段階がそうであるように、老いには苦しみや悩みとともに老い固有の価値や魅力があり、人間的な成熟のチャンスは十分にある」「縦糸、横糸、斜め糸、ほつれ糸、迷い糸など、さまざまな糸が織り成されて味わい深い柄の一枚の布ができ上がるように、人が年をとるということは、青く若々しい青春の時から、偶然と必然のおびただしい出来事を織り込み組織しつつ、人生という布にその人固有の作品を仕立て上げていくことのような気がする」

 老いからは誰も逃げることができない。だからこそ、自分の人生を受け止め、自分にしか織れない布を日々つくり上げているのだという気概を持ちたいと思う。

 今年は今号で納刊。読者諸兄が良い年を迎え、良い歳を重ねられるよう祈り、筆を置く。

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