コラム


 「経世済民」の年に  No.350
 例年よりたぶん長めだった年末年始の休みを、諸兄はどうお過ごしだったろうか。季節感が年々薄らいでいるとはいえ、「今年こそは」の覚悟や期待を胸に、仕事始めの第一歩を踏み出した諸兄も多かったのではないか。少なくとも今年は去年のように、「今年の漢字」が「偽」の一語に尽きて終わるような社会であってほしくないと思う。

 「社会」と、ごく普通に書いたが、明治時代まで日本には「社会」という言葉が、否、言葉以前に「概念」そのものがなかったことを、ご存知の方も少なくあるまい。だから明治に入り、西洋文明が積極的に採り入れられるようになって、困惑した。例えば「liberty」「nature」「economy」など、西洋では頻繁に使われているのに日本にはなかった概念の言葉を、さて日本語にどう置き換えればよいのかと。そんな中の1つだった「society」を、東京日日新聞(毎日新聞の前身)主筆の福地源一郎は「社会」と訳して明治8年1月14日付「社説」に初めて用い、それがその後定着した。

 「社会」という概念がなかった時代の日本人にとっての「社会」は、「世間」だった。

 「世間」と「社会」――似て非なるものだ。「世間」とは、個人(といっても当時の日本には「個人」という概念もまたなかったのだが)が属する「家」を中心にした、その外側を取り巻く、言うなれば「ご近所」のような狭い生活圏――それが「世間」だった。「世間」よりもっと広い範囲の「藩」や「天下」という言葉はあったが、一般人には無縁の遠い存在だったという点で、現在の「社会」とは異質の言葉だった。

 そういう概念だったからこそかえって、「世間」は絶対的な存在として捉えられ、時には擬人化されながら、人々の行動を律する役割を果たしていた。だから、身内が不祥事を引き起こせば、「世間様に申し訳ない」と「世間」に「様」まで付けて恥じ、謝った。ところが、そんな「世間」が「社会」へと大きく広がったいま、個人あるいは企業の行動の倫理観が、すっかり希薄になってしまったことを残念に思う。

 同様に「経済」の意味についてもだ。江戸末期の儒学者・太宰春台が英国イリスの著書「Political economy」を「経済小学」と訳した「経済」が、明治に入り広く使われるようになった。語源は中国の古典「抱朴子(ほうぼくし)」に出てくる「経世済民」で、「世を治(経)め、民を救(済)う」と読む。そう、「国民を救ってこその経済」なのだ。福田さんにはその意味を再認識し、「経世済民」をぜひ「一年の計」にしてもらいたいと願うばかりだ。

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