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「ラベリング」 No.871

アサヒ飲料が22日からネット通販「アマゾン」限定で始めた「おいしい水、天然水/ラベルレスボトル」の売れ行きが、一時在庫切れになるほど好調らしい。 通常は、商品名や成分表、製造者名などを印刷したラベルをペットボトル1本1本に巻くところを、24本セットの梱包箱に必要項目を印刷することで、それぞれのボトルにはラベルを巻かないまま販売するものだ。

「ラベルレス」の利点は、価格の若干の安さもさることながら、飲み終わったボトルの廃棄がラクだからだ。ペットボトルを家庭でのゴミ分別やスーパー店頭の専用回収箱などに捨てる場合、ラベルをいちいち剥がさなければならない。ボトル本体とラベルの材質が違うからだ。「ラベルレス」は当然その手間が要らない。

とはいえ、ボトルにラベルがないと、傍からは、まるでただの水道水を飲んでいるように見える。そんなことで商品として成り立つのか? ―― と思うのは旧世代の感覚で、若者には「ラベルレスボトル」の合理性は、充分受け入れられる感覚らしい。

ところで。「ラベル」と聞いて思い出すのは、大学時代、心理学の講義で聞いた米社会学者ハワード・S・ベッカーによる「逸脱行動」に関する「ラベリング理論」だ。

「ラベリング」とは、ある人の一面をたまたま見ただで、それがその人の全人格であるかのように捉えて決め付ける = 「レッテル(=ラベル)を貼る」ことを言う。

髪を茶色く染めているだけで「不良」とラベリングした時代が、日本にもあった。ベッカーは、「集団社会では、これを犯せば逸脱と見なすようなルールを勝手に設け、それを一部の人に当てはめ、彼らに“アウトサイダー”のラベルを貼りやすい。集団が、むしろ一部の逸脱者を生み出してしまうのだ」と、その危険性を指摘した。

そうした「ラベリング」の危険性は、個人による無責任な情報発信が極めて容易になったネット時代のいま、ますます注意しなければならない問題になっている。

ただ、米心理学者リチャード・ミラーによる「ラベリング」に関するこんな実験もある。子供たちを2グループに分け、一方には「教室にゴミを捨ててはいけません」と言い、他方には「あなたたちはとてもきれい好きですね」と言い続ける。すると一定期間後、教室からゴミがなくなったのは、前者ではなく後者グループだった。

日大アメフト事件の報道を見聞きしながら、人の動かし方の難しさを、改めて思う。

「そつがない」 No.872

ひと昔前の若者言葉の一つに「シカトする」があった。誰かをわざと「無視する」の意味で、学校などでのいじめの原因にもなった。

しかし「シカト」という言葉の誕生はもっともっと古く、1957(昭和32)年出版「警察隠語類集」にも載る。意味はやはり「無視する」で変わらない。語源は、賭博に使われる花札の、十月札の絵柄の「鹿と紅葉」にある。「鹿」と「十月」だから「シカト」。しかも、鹿がソッポを向いているデザインから「無視する」の隠語になった。

いまやオジサン・オバサンでも口にする「マジ」「ヤバい」「ビビる」なども、古くからの言葉が若者たちによって再発掘された“リバイバル言葉”だ。

「マジ」は江戸時代の芸人たちが使っていた楽屋言葉で、現在と同様に「真面目に」の意味。「ヤバい」は、江戸時代の射的場(=矢場)では隠れて売春が行われ、役人に見つかると厄介なことから「ヤバい」と言われるようになったとの説が濃厚で、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」にも「ヤバなこと」の記述がある。

最も意外なのが「ビビる」だ。発生はなんと平安時代まで遡る。合戦の際に着る鎧は、動くと触れ合ってビンビンと金属音がした。このため大軍が動くとかなり大きな音になる。治承4(1180)年に富士川を挟んで源平が対峙した戦いでも、源氏の兵たちが立てた鎧の音の大きさに、平家軍が文字通りビビって逃げた、という話が残る。

他方では、日常語として現在も結構使われているのに、充てる漢字が明確ではなかったり、意味も受け取り方がいくつかあるいささか厄介な日本語もある。その代表例が「そつがない」という表現だ。

「あの人は、そつがない」と言う時、良い意味では、1.気が利く 2.頭が柔らかい 3.機転が利く 4.仕事ができる 5.世慣れている 6.手抜かりがない ―― など褒め言葉として使われることが多い半面、言外に1.抜け目がない 2.目端が利く 3.小利口だ 4.熟れている ―― など皮肉めいたニュアンスを込めて使われる場合もある。そもそも「そつ」とはどういう意味か、どんな漢字を充てるのかさえ、明確な説が見当たらない。

昨年来、「忖度」という言葉が復活的に流行した。背景には、前者ではなく後者の意味で「そつがない」人たちが増えている社会現象があろう。あちこちの分野で、上ばかりを見てそつなく立ち回ろうとする小賢しい人間が目立つ状況を、極めて遺憾に思う。

脱「干渉効果」 No.873

1秒、2秒。そのたった2秒間に、あなたなら、何ができますか?

すでに1児のママの彼女を「ちゃん付け」するのは失礼と思いつつそう呼ぶと、卓球選手の福原愛ちゃんは、母親から「気持ちは2秒で切り替えられる」と小さい頃から教え込まれたそうだ。だから、直前のプレーやセット、ゲームで嫌な負け方をしても、余計な感情を2秒間で断ち切り、次のプレーに集中できたとインタビューで答えている。強さの裏側には、気持ちの素早い切り替えがあるということだ。

かつてドイツ・サッカーリーグ「ブンデスリーガ」でも活躍した柏レイソルの細貝萌選手は、試合途中でミスをしてしまった際は、「パーキング」と呼ばれる方法で気持ちを素早く切り替えるそうだ。松本大学の齊藤茂准教授(スポーツ心理学)から教わった「メンタルトレーニングを実践に役立てているもので、「パーキング」とは文字通り「駐車する」こと。自分が犯したミスを、頭の中に作った仮想の「駐車場」に一旦置き留め、いまは目の前のプレーに集中する、という考え方だ。

人間は誰しも、失敗やうっかりミスを避けられない。問題は、ミスを起こし落ち込んでしまった自分の気持ちを、いかに早く立て直すかだ。

なぜなら、人間の心理には「干渉効果」と呼ばれる現象があるからだ。脳は、嫌な記憶が一つインプットされると、それがポジティブな記憶に“上書き”されてしまう。すると、うまく行っていたことを忘れ、ミスや失敗を引き摺ったネガティブな思いが、大切な「ワーキング・メモリー(段取り脳)」の能率を下げてしまうという。

だから大事なのは、自身の失敗に捉われて傷口を広げる「負の連鎖」を断ち切ること。その方法が愛ちゃんの場合は「2秒間」、 細貝選手は「パーキング」なのだ。

実用に至らなかったものを含めると生涯で約3000の発明をしたとされるエジソンは言う。「私は失敗を重ねたのではない。うまく行かない方法を1万通り発見したのだ」

「経営の神様」によるこんな言葉もある。「商売は時世・時節によって損もあれば得もあると考えるところに根本の間違いがある。商売というのは不景気でもよし、好景気であればなおよしと考えねばならない。不景気は、かえって進展の基礎を固めるチャンスであることは、過去の幾多の成功者がこれを実証している」(松下幸之助翁)

 

落ち込んでいるヒマがあるなら、やることをやれ、と多くの先人から叱られている。

「夏越の祓え」 に No.874

今年も半年が経つ今月末、「夏越の祓え(なごしのはらえ)」として「茅の輪くぐり」を行う神社が近年増えている。正月の「年神様」に対し、作物の豊作や風水害、航海の安全、疫病の流行など天候を司る「水神様」をお迎えする本来れっきとした神事である。

境内に、茅(ちがや)の葉を巻いて作った直径6尺4寸(約194㎝)の大きな輪を吊るす。参拝客はその輪の中を、最初は左回りに「水無月の夏越の祓いする人は 千歳の命 延ぶというなり」と、次は右回りに「思ふこと みな尽きねとて麻の葉を 切りに切りても祓ひつるかな」、最後はもう一度左回りに「蘇民将来 蘇民将来」と唱えながら、「∞」の字を描くようにくぐる。すると厄難が退散し、無病息災になるという伝承だ。

昔、身分を隠した旅の途中で道に迷った素戔嗚尊(すさのうのみこと)が、蘇民将来に一夜の宿を頼んだ。快く迎え入れてくれた蘇民将来に、素戔嗚尊は帰り際、「災難を迎えた時は茅の輪を身に付けなさい」と教えた。その後疫病が流行ったとき、教えを実践した蘇民将来の家族は難を逃れることができた ―― 奈良時代編纂の「備後国風土記」に伝来が載る。

京都では「夏越の祓え」の日に、「水無月」と呼ばれる特別の和菓子を食べる風習が現在も残る。邪気払いの意味がある小豆の餡と、暑気払いの氷に見立てた白い外郎を重ねて三角形に切り出したシンプルな菓子だ。

そこへ今年は、新メニュー「夏越ごはん」が全国展開されるらしい。材料に厳格な決まりはないが、邪気を払うとされる赤い色のパプリカやニンジン、干しエビ、茅の輪を想起させる緑色のゴーヤやオクラ、インゲンなど、夏の食材をかき揚げにして、雑穀米や小豆ごはんなどに乗せ、その上から、百邪(健康な生活を妨げるさまざまな要因)を防ぐとされる生姜やレモンなどを使った下ろしだれを掛けて食べるのだ。

ただし、この「夏越ごはん」に歴史的謂れはない。米の消費拡大を目論む公益社団法人米穀安定供給確保支援機構が、2014年から始めたキャンペーンだからだ。それでも今年は、イオングループ、東急ストアなどのスーパー大手や、定食チェーン「やよい軒」、ミシュラン11年連続の和食名店「銀座うち山」などが乗っかる。

かつて関西の海苔問屋組合の発案で始まり、いまは節分の定番行事に根付いた「恵方巻き」と発想がほとんど同じの「夏越ごはん」 。悪いとは言わないが、せめて「夏越の祓え」本来の趣旨ぐらいは理解したうえで頂いたほうが、きっと美味しいと思う。

違和感 No.875

以下は先週、弊紙・京都本社版の本欄に現地情報部員が綴った一文である ――。

6月11日午前7時58分、突如襲った猛烈な揺れ。これまでの人生で経験した最大級のものだ。「地震の際はすぐ机の下に」と小学校の頃、防災訓練で何度か練習した記憶はあるが、実際には、座っていたソファから一歩も動けず、ただ揺れに身を任せ、揺れが収まるのを待っていただけだった。

独得の警報音と共にスマホが振動し「緊急地震速報」が入ったのはその直後。震源地は大阪だ。少し前に家を出た妻に電話を入れる。「いま駅前。すごい音がしたけど、大丈夫。このまま会社に向かう」 その言葉に安心しつつも、何か違和感を覚えた。

テレビを点けると、京都の震度は「5」。大阪上空からの映像には、幸い大きな建物の損壊や火災は映っていない。その間に、北陸に住む母から安否確認の電話が掛かり、遠方の友人からも「大丈夫?」のメールが入る。

妻にもう一度電話し、テレビで知った状況を伝える。「JRは運転を見合わせているから、地下鉄へ行ってみる」との返事に、「こんな非常時に片道1時間かけて会社へ行かなきゃならないのか?」と口に出掛けた言葉を飲み込み、そういう自分も、違和感を抱きながら会社へ向かった。

昼食時に見たテレビのニュースでも、JRの運転見合わせが続く中、駅前でバスを待つ人が「会社に行けずに困っている」とインタビューに応えていた。「家に戻ることができず…」ではないだ。緊急停車した電車から降り線路を歩く人たちが向かっていた先も、自宅ではなく会社。またも違和感を覚えた。

この時点では、あの揺れが本震なのか余震なのか、専門家でもまだ分からないと言っていた。それなのに人々は、自宅ではなく会社へ、向かおうとしていた。他方で市内の幼稚園、小中高校は臨時休校になった。職場へ向かった親たちが帰宅難民になったら、家族は離れ離れになり、混乱にますます拍車が掛かる。大阪・京都地区は、気象庁が1923(大正12)年に地震観測を始めて以来、その恐れに最も近付いた日だった。

電車が止まったら、線路を歩きバスを長時間待ってでも、家族が安心して身を寄せ合う自宅ではなく、会社へ向かおうとする日本人の防災意識は、これでよいのか?

―― 同じ不安が、明日わが身に起きても不思議ではない。諸兄なら、どうする?