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よーい、スタート! No.858

「気がつけば300本を超える映画、Vシネマ、ドラマに出演していた。主演もあればワンシーンしか出ていない作品もある。殺し屋、医者、映画監督、肉体労働者、SM作家、自分を鳥だと思い込んでる男……。死にかけたこともある。我を失ったこともある。すべての役を、僕は懸命に演じた。現場で喜び、現場で傷つき、そして現場で生きる。ぼくは現場者(げんばもん)だ」と自著「現場者」(2001年出版)に書いていた。

映画やテレビドラマでの名バイプレーヤー・大杉漣氏(66)が急逝した。放送中のドラマのその日の撮影を終えた先週、宿泊先で食事していた際、腹痛を訴えた。病院へ搬送されたが、そのまま、共演者や関係者、駆けつけた家族に見守られながら息を引き取った。まさに「現場者」を貫き通した漣さん(そう呼ばせてほしい)らしい最期だった。

死因は「急性心不全」とされる。ただ、本人が直前に訴えていたのが胸痛や頭痛ではなく「腹痛」だったことから、「放散痛」と呼ばれる特有の症状の存在が、週末のワイドショーの多くで話題にされた。

「放散痛」 ―― 例えば、心臓疾患である狭心症や急性心筋梗塞によって生じた刺激は、「胸部だけでなく、左肩や左腕、左手、喉や顎や歯、時には鳩尾など腹部にも、散らばって痛みを引き起こすことがある」と東京医科歯科大学の古川哲史教授。痛みを伝える神経が、心臓の痛みのみならず隣接の神経が支配する領域に病変があると誤情報を伝えてしまう場合があるからだ。とくに肩や腕が重くてだるいとか、痛くてたまらないなどと本人が訴えた場合は、心筋梗塞を疑ったほうがよいという。

冬は戸外と室内、昼と夜の寒暖差が大きいため、その変化に対応する心臓や血管が原因の突然死が起きる危険性が高い。昨年暮れに自宅で急死した野球評論家・野村克也氏の妻・沙知代さんも、死因は「虚血性心不全」だった。

ただ、「心臓が急に止まるのは『結果』であって『原因』ではない。『原因』は必ず何かあるはず」と病理医・榎木英介氏。だから日頃の健康管理、点検が大事なのだ。

漣さんは、自著に「難しいことだが、ぼくはいつでも旬でいたいと思う。誰にそう言われたいわけではなく、いまが自分の旬だと思って、呼んでくれた監督の現場に行きたい」と書き、「あとがき」最後の1行をこう結んだ。「では、行ってきます、 次の現場に」

 

ぜひ来世の舞台でも、渋い演技を見せてあげてほしいと思う。「よーい、スタート!」

桜梅桃李 No.859

今月末で終わるNHK朝の連続テレビ小説「わろてんか」 。ヒロイン・北村てん(葵わかな)の夫で今年1月の第97話で死亡した北村藤吉役を演じていたのは、若手俳優の松坂桃李だ。2008(平成20)年にモデルとしてデビュー。翌年テレビ初主演になった戦隊シリーズ「侍戦隊シンケンジャー」での志葉丈瑠役は別として、その後起用されたドラマでは、ほとんど素のままと思えるような演技が好評で、人気を得ている。

「松坂桃李」は 芸名ではなく本名だそうだ。ただし、戸籍通りの“読み”をキーボードに打ち込み漢字変換しようとしても、変換候補には出て来ない。なぜなら彼の場合、「桃李(とうり)」ではなく「桃李(とおり)」と読ませているからだ。そこが、本人と言うより、共に教壇に立っているらしいご両親の、命名に際するこだわりだったのだろう。

人の名前を勝手に話のネタに使って恐縮だが、「桃李」という彼の名には2つの由来があると、最近は何もかも公開されてしまうネット百科事典に載っている。

一つは、鎌倉時代中期に成立した説話集「古今著聞集」に「春は桜梅桃李(おうばいとうり)の花あり。秋は紅蘭紫菊(こうらんしぎく)の花あり。みなこれ錦繍(きんしゅう)の色、酷烈の匂いなり」とある、その前段部分に因る。春に咲く桜・梅・桃・李(すもも)の花の、どれがとくに美しいというのではない。各々が個性をもって咲けばよい ―― そんな意味をわが子の名に込めた親の思いはよく分かる。

もう一つは、歴史家・司馬遷が編纂した中国の史書「史記」に載る「桃李不言、下自成蹊」 、略して「桃李成蹊」の成句に由来する説だ。話は前漢時代に生きた軍人・李公にまつわる。

李公は口数が少なく、清廉かつ欲のない性格で、戦場では部下や兵士が食べたり飲み終わるまで自分は口にしなかった。また戦いに勝って褒賞を得た際も、すべて部下に分け与えるような人物だった。だから、彼が死んだ時、多くの人々が悲しんだ。

そこで生まれたのが「桃李成蹊」の言葉だ。つまり、桃や李は言葉を発することはできないが、花が咲くと、香しい匂いに誘われて人々が自然に集まり、気がつくとそこにはいつの間にか蹊(=小道)が出来ている。人格者も同じこと。自己宣伝をしなくても、その人徳を慕って人が自然に集まって来るものなのだ ―― と。

6日から二十四節気「啓蟄」に入って“春近し”。本州の梅は咲き始めたが、桜・桃・李はこれから。ただ、自ずと道が出来るようなリーダーの出現は、いつになるのか。

省略グセ No.860

卒業シーズン。式では「仰げば尊し」を歌う、という常識が「非常識」になってからもう何年も経つらしい。「歌詞の一部が教師への尊敬を強要している」として斉唱に反対する人たちが多いからだそうな。何もそこまで…と昭和世代の多くは寂しく思う。

その「仰げば尊し」のサビ部分「今こそ別れめ、いざさらば」の「さらば」は、「然(さ)らば、これにてご免蒙る」の冒頭部分だけを口にした、日本語によくある省略表現である。同様に、出会った者が別れる際に交わす「さようなら」もしくは「さよなら」も、「さようならば、これにて失礼」という挨拶の、本来は接続詞部分だけを取り上げて使われるようになった省略表現だ。

「日本人ほど言葉を省略したがる民族は、世界でも珍しい」と、国文学者で古代民族研究所代表の大森亮尚氏。「言語学的な欠陥というより、それが特有の言語文化だった」からで、「さらば」も「さようならば」も「別離をはっきり宣言しなくても、接続詞を口にするにとどめることで、別れの辛さを察してもらおうとする謙譲の美学に通じる」と大森氏は言う(著書「知ってるようで知らない日本人の謎20」 から要約)。

ただ、最近の日本人の言葉の省略は単に無機的で、謙譲の気配などまるでない。「スマホ」「携帯」「アプリ」「パソコン」「テレビ」「デジカメ」の日用品はもとより、「キムタク」「トヨエツ」「ミスチル」「マツケン」「ナベツネ」などの人名、「日銀」「東証」「国連」などの名称、さらには「就活」「婚活」「終活」といった社会現象に至るまで、すべてが省略形と言うより“破壊形”と称したほうが相応しいかも知れない。

おかげで、いまでは正式名称が分からなくなってしまった言葉が多いのではないか。「プレハブ」(プレファブリケイテッド・ハウス)、「シャーペン」(エバー・レディー・シャープ・ペンシル(日本語なら“常時尖り芯鉛筆”)、「ボールペン」(ボール・ポイント・ペン」、「コンビーフ」(コーンド・ビーフ=塩漬け牛肉) 、等々。

医学生のほとんどが持っているとされる「ガミエル」には笑った。写真やイラストがふんだんに使われ、「とても分かりやすい」と好評の医学参考書「病気が見える」シリーズのことだ。そう、「病気が見える」 。最初に略した誰かは天才だ。

ちなみに「教科書」の正式呼称は「教科用図書」 、「食パン」は「主食用パン」とか。 日本人の“省略グセ”は、もはや諦めるしかない域にまで来てしまったらしい。

30年ぶりの上海 No.861

先週末に出掛けた30年ぶりの中国・上海市は、新たな驚きの連続だった。

上海市の人口2419万人 (2015年現在)は、重慶3048万人に次ぐ中国2位で、北京の2172万人(3位)を上回る。中心街は若い世代を中心に大勢の人で溢れ、活気がある。

ただ、日本の繁華街と違う光景は、主要道路を走るスクーターの多さだ。30年前の自転車にとって代わった。自転車もまだ多いが、いまそのほとんどは、どこで借り・どこで返すのもOKな貸自転車。30分1元(17円前後)の借り賃は、スマホのアプリを使って払う。他方、スクーターは電動。1回の充電で約40㎞走る。免許は不要だ。

信号を無視する歩行者が少なくない中、自転車、スクーター、車が混在して走っているにもかかわらず、街全体が意外に静かな理由に、しばらく経ってから気付いた。車は、割り込みや幅寄せなど乱暴な運転が多いのに、クラクションを鳴らさない。自転車は当然だがスクーターも電動=無音だから、交通量が多い割に街全体が静かなのだ。

30年前はこんなじゃなかった。自転車はチリンチリン、車はブービーと、むしろ鳴らしながら走っていた。いま、車のクラクションを鳴らすと罰金200元だそうだ。

日本をはるかに凌ぐスマホ王国。と言うより、スマホが扱えないと市民生活を営むに支障が出るほどという。ほとんどのレストランで注文はタブレット端末を使い、支払いもスマホを使った決済サービス。グループで誰かが代表して払った時は、ほかの参加者は彼に頭割りの代金をスマホで支払う。そうした「モバイル化」の規模と浸透度は、おそらく日本の最低3年先を歩んでいるのではないか。

ただ、格式は市内一とされるホテルに泊まったのに、こんな体験をした。バスタブのザラっとした感触の原因は、どう考えても湯垢だ。トイレはウォシュレットではなく、また紙が身体の脇より後方に取り付けられていたため、取るのにとても窮屈な姿勢を強いられた。客に対する細やかな気配りは、中国にはまだ育ってないらしい。

衛星チャンネルでNHKの日本語放送を観ていると、画面が突然真っ黒になり、音声も消えた。その時NHKテレビは、習近平国家主席の再選と、その結果、習主席は生涯にわたってその座にあり続けることが理論上可能になったことへの問題点に触れようとした瞬間だった。国民の目や耳を塞ぎながら、しかしなお、さらに発展し続けるであろう中国 ―― その不気味さ、怖さを、改めて知ることになる2泊3日でもあった。

君 君たり、臣 臣たり No.862

森友学園との土地取引に関する財務省の、決裁文書改竄をめぐって行われた国会証人喚問。「予想通り」とは言え、佐川宣寿・前理財局長の応対には心底落胆した。

質問が問題解明に重要なポイントに及ぶと、彼は自身への刑事訴追の恐れを理由に49回も証言拒否を繰り返し、他方、文書改竄に手を染めた理由については、官邸などからの指示やいわゆる忖度を、明確に否定し続けた。

佐川氏は一体誰を、何を、守ろうとしているのか。それを守ることで彼は、今後の人生をどう生きようと考えているのか ―― 多くの人々が似た思いを抱いたのではないか。

テレビで、とあるコメンテーターが、ある言葉を口にした。「君(きみ) 君たらずといえども、臣(しん) 臣たらざるべからず、ですからね」 中国・戦国時代に成立した儒学の経典「古文孝経」にそれは載る。現代語訳すれば、「君主に君主たる人徳がなくても、臣下は臣下としての道を守り、忠義を尽くさなければならない」となろうか。

大蔵省入省後36年間、国家公務員だった佐川氏にとって、辞めてなお忠義を尽くさなければならない君主とは一体誰だったのか。残念だが、それが私たち「国民」ではなかったことを、今回の証言で思い知らされた。極めて残念に思うし、悔しい。

ただし、「古文孝経」に載る「君君たらずといえども…」の元は、「論語」(顔淵)に載る、孔子が政治について問われた際に答えた「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」にあるとされる。意味は「君主が君主として、臣下が臣下として、父が父として、子が子としての役割を果たせば、国はうまく治まる」だ。

「論語」研究者・佐久協氏は言う。「『論語』での『君主は君主らしく、家臣は家臣らしく、父は父、子は子らしく務めなさい』という本来の意味を、後に『孝経』で『君主が君主らしくなくても、家臣は家臣らしく仕えよ』と曲げて解釈するようになったのは、孔子の教えを国家イデオロギーとして人民の支配に利用する意図を含む“儒教的解釈”だ。儒教が日本に伝わったのは聖徳太子の時代だが、盛んになったのは江戸時代。当時の封建社会では後者の儒教的解釈のほうが都合が良いため、『君君たらずといえども…』の解釈を広めたのだろう」(抜粋、要約)

さて、多くの会社で新年度入りした。新人を迎えた職場も多かろう。これから彼らに求める働き方は、「君君たり」をまず明確にしたうえでの「臣臣たり」であってほしい。