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続「ツルツルツルッ」 No.826

梅雨が明け猛暑が来れば「ツルツルツルッ」 ―― と題して過日、そうめんを話題にした。しかし夏にはもう一つ楽しみな「ツルツルツル」がある。「心太」である。

「心太」と漢字で書くのはもう死語なのだろうか。そうならば残念だ。だって「心太(ところてん)」は、奈良時代の「大宝律令」にも「こころぶと」として載る日本固有の海藻食品なのだから。「こころぶ」 → 「こころてい」 → 「ところてん」と転訛したらしい。

原料はテングサだが、ただし、「テングサ」という名前の海藻はない。マクサやヒラクサ、オニクサ、オバクサなどの海藻を総称し「天草(てんぐさ)」と呼ぶ。

ついでに触れると、テングサは「海藻」で「海草」ではない。海藻は「花を咲かせず胞子で増える海中の隠花植物」、他方の海草は「花を咲かせ、種を作って増える海中の顕花植物」だから、似て非であるとネット辞典に教えられた。

道草ついでに加えると、ところてんと寒天は、原料が同じである。江戸初期、京都の旅館・美濃屋の主人が、冬場に戸外に捨てたところてんが、夜は凍り、昼は融け、夜また凍るのを繰り返しているうち、海藻臭さが前より消えているのを発見。京都・黄檗山萬福寺の隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理に向いたフリーズドライ食品として認められ、「寒天」と名付けてもらったのが始まりとされる。

ところてん自体はほとんど無味。それを関東以北は酢醤油、東海は三杯酢、関西は黒蜜、四国はカツオ出汁で味付けするのが一般的だ。関西で甘くするのは、奈良・京都の上流階級では、見た目も食感も似た「葛きり」を高価な黒蜜で食べていたことに準ずると思われる。ちなみにくずきりは、製法はところてんとほとんど同じだが、原料がマメ科植物・葛の根から精製したでんぷんなので、まったく別物である。

ところてんは、栄養価が100g2kcal未満という超低カロリー食品。しかも、ところてんに含まれる水溶性植物繊維が糖質の吸収や血中コレステロールを抑え、また腸内環境を良くするというので、最近、健康食品として再び見直されている。

そんなところてんを、名古屋では、箸1本で食べるのが習慣であり風情でもあった。腐りやすい食べ物だから、1本箸で掬って切れないか、つまり傷んでいないかを確かめる「生活の知恵」だった。それなのに近頃の名古屋人は、ところてんをフォークで食べるという。オールド世代がつい漏らす溜め息は、ますます深くなるばかりだ。

ハイコンテクスト社会 No.827

手塚治虫の「陽だまりの樹」は、武骨で真面目で武士の鑑(かがみ)のような下級武士・伊武谷万二郎と、実は著者の曽祖父で、お調子者で遊び人だった蘭方医・手塚良庵の2人を主人公に、幕末に生きた人々の人生模様を描く歴史漫画の名作である。

物語では、日本に修好通商条約の締結を迫る米国が、幕府に対し早く交渉のテーブルに着くよう求める場面がある。最初はその時期や方針をはっきり口にしない日本だったが、紆余曲折を経て安政4(1857)年、初代駐日弁理公使ハリスはようやく江戸城で、13代将軍徳川家定との謁見を許される。

しかし家定は、普段から人前に出ることを極端に嫌う人だった。幼少時に天然痘を患った跡が顔に残っていたためとの説もあるが、だからかどうか家定はハリスに接見した際も、床下に隠した部下に足で合図を送って代わりに口上を述べさせ、自分は口パクで通したという話さえ残る。

ただ、家定に限らず日本人は、そもそも人と話すこと=コミュニケーションが苦手な民族だ。「日本人の1日の会話量は、アメリカ人の1/2」という、ネットで見かけた数字は出所不明なので推す自信はないが、わが身に照らせばそうかもしれないと思う。

米国の文化人類学者エドワード・ホールは国々を「ハイコンテクスト社会/ローコンテクスト社会」の2つの文化に分類したが、日本は歴史的に前者の国に違いあるまい。「コンテクスト」は「文脈」のことだから、「ハイコンテクスト」は「抽象的な文脈でも通じ合える」、つまり「十まで言わなくても“あうんの呼吸”で話が通る」という意味。「ローコンテクスト」は逆に、直接的で分かりやすい表現を好む文化を指す。

日本が前者である理由はおそらく、単一民族に近く、しかも島国だからだろう。言語や文化、知識、体験、価値観、嗜好性が極めて似ている。そのため、自分の考えを相手や周囲に積極的に伝える努力をしなくても、大体のところは察してもらえ、話が通じてしまう。それどころか、話を聞いた側が相手の言わんとするところを察せられないと、「気が利かない」とか「空気を読めない」などと評価を下げられてしまう。

それが最近「忖度(そんたく)」という言葉が思わぬ注目を浴びた結果、私たちはハイコンテクスト社会が持つ“落とし穴的問題点”に気付かされてしまった。グローバル時代はローコンテクストなコミュニケーションを求められるのだとしたら、気持ちは複雑だ。

初恋の味 No.828

「二十四の瞳」「浮雲」「喜びも悲しみも幾歳月」など、高峰秀子さんは日本映画の戦後史を飾る作品に数多く主演した。隠れた名作「銀座カンカン娘」もその一つ。「♪ あの娘(こ)可愛いや カンカン娘/赤いブラウス サンダルはいて/誰を待つやら銀座の街角…」と彼女自身が歌った主題歌を、言われれば思い出す読者もいらっしゃろう。

ただ、その歌詞の四番でこう歌われているのを知る人は多くあるまい。「♪ カルピス飲んで カンカン娘/一つグラスに ストローが二本/初恋の味 忘れちゃいやよ…」

というので今日は、これもまた戦後日本を代表する清涼飲料「カルピス」の話だ。

諸経緯を経て昨年、アサヒ飲料に統合された旧カルピス食品工業の創業は1916(大正5年)。創業者・三島海雲は、大阪府下の寺の長男に生まれた。本願寺文学寮(現龍谷大学)を卒業したが仏門に入らず、大陸に渡って日本雑貨を売っていた。

そんな折り内蒙古で体調を崩し、危険な状態に陥った。その際、勧められるまま酸乳を飲み続けたところ回復したことが動機になった。帰国し、乳酸飲料の研究に取り組み、量産化に成功、「カルピス」と名付けて発売したのは1919(大正8)年だった。

「カルピス」のネーミングはカルシウムの「カル」と熟酥(乳酸)のサンスクリット語「サルピス」の合成。三島は最初「カルピル」を候補に考えていたが、相談に出向いた作曲家の山田耕筰に「音の響きは『カルピス』が一番良い」と言われ、決めたそうだ。

「何事も大事な事柄はその道の専門家に意見を聞く」 というのが三島のスタイル。「初恋の味、カルピス」というキャッチフレーズもそうだった。発案者は三島自身ではなく、後輩の文学青年・駒城卓爾。当時は「初恋」などという言葉を普段口にしにくい時代だったから、さすがの三島も躊躇したが、「甘くて酸っぱいカルピスは初恋の味そのもの。人々の夢と希望と憧れがある」と言う駒城の進言を受け入れた。

帽子を被った黒人がストローで「カルピス」を飲んでいるお馴染みの広告デザインは、「差別」だと社会問題視されて使われなくなった。しかし、「銀座カンカン娘」の歌詞の四番に読み込まれた、1つのグラスに2本のストローがV字型に差し込まれて一緒に飲む姿は、日本の手話では「初恋」を意味する型として現在も使われている。

本州はほぼ梅雨明け。今夏は猛暑とか。久しぶりに自分で作った冷たい「カルピス」を飲みながら、甘酸っぱかった「初恋」を、こっそり思い出してみてはいかがか。

「おもいで」 No.829

♪ あなたと歩いたあの道に/夜霧が冷たく流れてた …… 布施明が1966年に歌ってヒットし、彼をスターダムに引き上げるきっかけになった「おもいで」(水島哲作詞)。しかし、この歌を1961年に最初に歌い世に送り出したのは作曲者自身の平尾昌晃だ。

高校を中退し地元のジャズ喫茶で歌っていた平尾は、スカウトされて1958年にプロデビュー。山下敬次郎、ミッキー・カーチスと並ぶロカビリー歌手として爆発的人気を博した。その後ロカビリー・ブームの先を読み歌謡曲に転向、「星は何でも知っている」(1958年)、「ミヨチャン」(1959年)もそれぞれ100万枚の大ヒットを記録した。

だが、後が続かなかった。そのうえ、人気が陰り始めていた1965年、旅行先のハワイから拳銃を持ち帰ったことで逮捕。釈放後は人目を避けて実家に戻り、知人のレストランで皿洗いの手伝いをしていた。そんな時のことだ。北海道のファンから葉書が届いた。「『おもいで』の曲で再起なさるのですか? 楽しみにしています」

その日から、同様のファンレターが届き始めた。不思議に思い調べると、少し前、札幌のラジオ局が平尾が昔歌っていた「おもいで」を「名曲」として取り上げたのがきっかけでリクエストが殺到、ついにはヒットチャート1位にまでなっていたのだ。

そこから新しい歴史が始まった。レコード会社から「お会いしたい」と連絡があった。再出発の誘いかと期待しながら座った応接室で、しかし平尾はこう言われた。「あなたの曲『おもいで』を、いま売り出し中の新人・布施明に譲ってくれませんか?」

「おもいで」は、たしかに平尾にとってはほとんど売れずに終わった歌だ。とはいえ、持ち歌を新人歌手に譲れとは、言い換えれば自分の歌手生命のピリオドを宣告されたのと同じこと。茫然とする平尾に、レコード会社のディレクターは続けた。「でも、『おもいで』をただ譲ってほしいというのではありません。あなたには、布施がこれから歌う曲を作っていただきたい。一緒に仕事してほしいんです。いかがですか?」(平尾昌晃著「気まま人生 歌の旅」「不死鳥のメロディー」から抜粋、要約)

結局、平尾はその後「草原の輝き」(アグネス・チャン)、「二人でお酒を」(梓みちよ)、「よこはま・たそがれ」(五木ひろし)、「恋のしずく」(伊東ゆかり)、「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子)、「うそ」(中条きよし)等々約1500曲を遺し、先日21日旅立った。

人生を諦めてはならないこと、道は1本とは限らないことを、彼の79年間は教える。