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果物の季節 No.789

スーパーではほとんど、果物売り場が入口の一番近くに配置されている。季節感を感じさせやすい果物は、商品が頻繁に入れ替わることで客の目を飽きさせないうえ、季節の果物の新鮮さが店内全体に広がる効果を持つからだ。

梨、ブドウ、柿、桃、イチジク、栗、リンゴ……まさに「実りの秋」が勢ぞろいしていた某店の売り場に、「10月26日は柿の日です」のPOPがあった。なぜその日が?との疑問には、「正岡子規」とのヒントを差し上げよう。そう、明治28年のその日、奈良を旅していた子規が詠んだこの著名な一句に因む。「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 そこで2005年、果樹業界団体がPRのためこの日を「柿の日」に定めたらしい。

「梨尻柿頭」という言葉をご存知だろうか。「?」と一瞬、どう読むべきか戸惑うが、そのまま「なしじり・かきあたま」でよい。意味もそのままで、「梨はお尻がおいしく、柿は頭がおいしい」という古言である。

果物について、頭とかお尻といった区別・呼び方は正式な植物学にはない。ただ一般的に、ぶら下がっている果物の枝側(ヘタ側)が頭、地面側がお尻と称される。もう1点、果物には、もともと花がついていた場所に近い側のほうが、より甘くなる性質がある。花がついていた側のほうが、わずかでも早く熟すからだ。それを踏まえたうえで、梨と柿とでは果実の育ち方が違う点に、「梨尻柿頭」といわれる理由がある。

つまり梨(やリンゴなど)は、果実の枝側(頭側)にある花托や萼が成長して果実になるのに対し、柿(や桃など)は、枝から離れた(=地面側の)花のめしべの子房が発達して果実になる。したがって「梨尻柿頭」の言葉は、梨は枝側(頭側)にあった花托部分、柿は地面側(お尻側)にあった子房部分という、食べる部分の違いを指すと同時に、「同じ1個の果実なら、梨などは枝側、柿などはお尻側のほうが、熟し方が微妙に早い分、より美味しく(=甘く)感じる」(日本果樹種苗協会)ことを意味するのだそうだ。

同じ理屈から、アドバイスを1つ。ブドウも、同じ房でも花が咲く(=実になる)順序通り、ツルに近い粒のほうが甘い。なので、一人で一房食べる時は房の先端から食べたほうが、徐々に甘く食べられるからよい。しかし、テーブルに盛られた房に数人が手を伸ばして食べる時は、ツル側の粒から選んで食べたほうが、より美味しく食べられるというわけ。ただし。それを知っている誰かにバレて顰蹙を買っても、責任は負わない。

校閲 No.790

石原さとみ主演のドラマ「地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子」が5日から日本テレビ系列で始まっている。

ファッション誌の編集者になりたくて、やっとの思いで出版社に入社したのに、配属されたのは、華やかさとは無縁の校閲部。でもいつかは夢を叶えたいとがんばる28歳主人公の奮闘が、コミカルに描かれる。オジサン世代には年不相応で気恥ずかしさを覚えながら、でも観ることにしたのは、出版社の校閲部という、裏方の仕事にスポットを当てた内容に興味を持ったからだ。

「校閲」という仕事は、よく耳にする「校正」と、似てはいるが違う。作業の深度が、もっと深くなる。つまり「校正」は、昔は活字で組まれ、現在はデジタル入力されて出てきた校正刷り(ゲラ)と原稿を照らし合わせながら、原稿通り活字化されているかどうか、もっぱら誤字・脱字をチェックする作業。

これに対して「校閲」は、単純な誤字・脱字のチェックもさることながら、原稿に書かれている言葉の用法が妥当かどうか、人名・地名などの固有名詞、化学・科学などの専門用語や数値に誤りはないか、また小説などの場合は、これまで書き進めてきた話の展開や登場人物の関係などに矛盾が生じて来ていないか、時代考証に照らして歴史的事実に錯誤はないか、さらに場面々々における表現が適切かどうか等々を、チェックし、時には調べ直し、ただし、その結果を、筆者に無断で直したりはせず、疑問点を示す格好で判断を仰ぐことが役割になる。

例えば、こう書かれてきた原稿を、諸兄ならどう「校閲」するだろうか。

①「難航必死、米海軍・普天間基地の異説問題」 ②「おかずを作り過ぎたのでお裾分けします」 ③「フィギュアスケート男子シングルスで日本勢健闘」

①は、「必死」を「必至」、「異説」を「移設」と直しただけでは校閲したことにならない。なぜなら普天間基地は「米海軍」ではなく「米海兵隊」の所管だから。②は「お裾分け」は人から貰った物を分けることを言うため、この場合は「食べてください」に。③は、テニスや卓球などは複数のプレーヤーで競技するから「シングルス」と複数形だが、リンク上で1人が演技するアイススケート競技は「シングル」が正しい。

さて――。誰がいつ筋書きを書き換えてしまったのか分からない伏魔殿・東京都の豊洲市場移転問題。都庁には、矛盾や問題点を厳しくチェックする「校閲者」が必要だ。

お金の掛け方 No.791

私たちが存じ上げなかっただけで、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長がずいぶん政治的手腕に長けた方だったらしいことを知り、驚く。

だって、バッハ氏はもともと日本で開かれる国際会議に出席するため来日したのだ。それなのに、大混乱していた東京五輪ボート・カヌー競技場問題について、本来予定していなかった小池都知事や森東京五輪組織委員長、最後には安倍首相にまで会い、たった3日間で、話を当初計画案に引き戻すキーマン的役割を果たした気配がある。今月中には結論を出すと明言していた小池都知事も、こういう姿であれ決着する理由付けができて、実は内心安堵しているのではないかと、筆者は邪推する。

ところで諸兄は、「ボート」と「カヌー」の違いをご存知だろうか。「ボート」は、公園のボートと同様、艇に固定した櫂(=オール)を使い、漕ぎ手(=漕手)の後方に進む。対して「カヌー」は、固定しない櫂(=パドル)を使って、前方に進む。

さらに「ボート」競技は、「スカル」と「スイープ」の2種目に大別される。「スカル」は1人もしくは複数の漕手が櫂を両手に一本ずつ持って漕き、「スイープ」は2人以上の漕手が左右どちらか1本の櫂を両手で持って漕ぐ。

さらに両種目は、漕手の人数や舵取り(=舵手)の有無によって、「スカル」=シングル、ダブル、舵手なしクォドプル(=4人漕ぎ)、舵手ありクォドブルと、「スイープ」=舵手なしペア、舵手ありペア、舵手なしフォア、舵手ありフォア、そしてエイト(=8人漕ぎ)などに分かれる。

一方の「カヌー」競技も、「カヤック」と「カナディアン」の2種目に分かれる。「カヤック」は両端に水かきがついたパドルを使って漕ぐのに対し、「カナディアン」は水かきが片側だけにしかないパドルを使う。さらに各々の漕法で、穏やかな水面の直線コースをいかに速く漕ぎ切るかを競う「スプリント」と、急流の中を、設けられたゲートを正しく通過しながら速く漕ぐ「スラローム」に分かれる。

リオ五輪ではカヌー競技「スラローム・カナディアン」で羽根田選手が日本人初のメダルを獲得した。しかし、同大会ではほかにボート競技で男女4人、カヌーでは同3人の日本人が出場していたことを、関係者以外はほとんど知るまい。会場問題もさることながら、各競技の面白さ、奥深さのPR広報に、もっと金をかけられないのかと思う。>

「緩衝」の大切さ No.792

邦画・洋画を問わず過去の名作を上映する今年で7回目の「午前十時の映画祭」の後半が、来月4日まで全国27館の映画館で開かれている。今回上映される洋画24本、邦画5本の中で注目される1つが、最新の4Kデジタル技術を駆使して昔日の映像・音声が修復されたリマスター版の「七人の侍」である。

黒澤明監督が1954(昭和29)年、何千人ものキャスト、スタッフを動員して撮った「七人の侍」は、映画ファンに限らず多く映画人にも感動や影響を与えた。

ただ、全3時間半、30万コマに及ぶこの大作は、すでに半世紀が経過したことでモノラルのフィルム原版は劣化を否めなかった。それを今回、最新デジタル技術によって、映像・音声とも鮮明に蘇らせることに成功した点が注目されている。

野武士による略奪行為に悩まされていた村人たちが、あてにならない代官所に頼るより、自分たちで侍を雇って村を守ろうとする「七人の侍」。そのリーダー格は、沈着冷静な智将なのに敗戦続きで浪人暮らしを強いられている島田勘兵衛(演・志村喬)と、勘兵衛に惹かれてついて行く感情豊かで無鉄砲な菊千代(同・三船敏郎)である。

しかしこの映画を観ていると、彼らを支えるほかの5人の侍、中でも林田平八(同・千秋実)、岡本勝四郎(同・木村功)の2人が果たす役割の重みが分かってくる。

平八は、剣の腕前は「中の下」だが、性格が明るくて人に好かれ、苦境の中でも深刻にならないのが取り柄。一方、勝四郎は、侍とはいえまだ元服前の若者で、ハートの強さも剣の腕前も半人前どころか、時には足手まといにさえなる。にもかかわらず脚本の黒澤や橋本忍、小国英雄らはなぜ、そんな2人を敢えて配したのか。

集団・組織の中に「半人前」が居ることによって、他の者は彼らに範を示すことを意識し、個人の能力をより発揮する。同時に、集団の中に「弱い者を守る」「半人前を一人前に育てる」という共通の目標が生まれ、団結心が高まるのだ。

強烈なリーダーと優秀な部下だけで構成された組織は、表層は強くても、衝突すると壊れやすい。「七人の侍」における平八と勝四郎は、組織のいわば「緩衝」役なのだ。

緩衝があるからこそ、組織は柔軟性を保て、より強固にもなる。強い組織を作るために大切なのは、表面からは見えにくい、実は緩衝なのだ ―― そんな観点から名作映画を観直すこともまた、一つの楽しみになるのではないか。