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「ラガー」を飲みながら No.781

「『いろいろ考えさせられる本だよ。読んでみたら?』と訪問先の社長に勧められた」。弊社の支社員が営業日報の社内メールにそう書き添えてきたのは、元キリンビール副社長・田村潤氏の著書「キリンビール高知支店の奇跡 勝利の法則は現場で拾え!」だ。図書館ネットワークで検索すると、多くの図書館で「貸出中」。出版社によると今年4月発刊なのに早や12刷目というから、ベストセラーといえよう。

主力商品「ラガー」を武器にビール業界で長年、60%前後のシェアを誇っていたキリンビール。しかし1987年、一時は「夕日ビール」とまで揶揄されていたライバル・アサヒビールが「スーパードライ」を新発売し大人気を得たことで、状況が一変した。

アサヒの猛追を食い止めるため「納入先からの値下げ要請に応えよ」との上司命令に「価格競争は体力を消耗するだけ」と逆らったのが、当時、東京本社量販部営業企画部長代理だった田村氏。その結果……田村氏は1995年、営業成績が全国最下位クラスだった高知支店への異動を命じられる。ポストは支店長。しかし、事実上の左遷だった。

高知支店に出社した初日、田村氏が支店社員11人を前に朝礼を行なった際の印象を書いている。「成績が悪い支店だから暗い雰囲気かと思いきや、意外と淡々としていた。危機感を持っているとはまったく感じられなかった。『上に誰が来ても一緒。時代の流れは変わらないんだよ』 そう思っている諦めがにじみ出ていた」(要約)

そんな支店の建て直しを、「何からどう手を付けてよいかわからなかった」と振り返る田村氏が、しかしその後、2001年に全国で高知支店だけがアサヒを抜いてトップシェアを奪取するまでに、どんな手を打ったのか。その結果、自身も四国4県の本部長、東海地区本部長を経て2007年に営業本部長兼代表取締役副社長に就くまでに、一貫して何を考えてきたかについては、ネタバレになるから触れないでおこう。

ただ、本書には多くの「田村語録」が載る。例えば、▽上司を見るな。ビジョンを見ろ。上から命令された施策や企画を忠実にこなすことだけが仕事ではない ▽経営は実行力。指示待ちスタイルから脱却すること。「結果を出す」ことにこだわること。ビジョンと戦略に基づき、愚直に基本を繰り返す行動スタイルが大切、等々。

盆休みが近い。今年は例年以上に暑くなるとか。ならば、図書館で借りるか税別780円を投資して、本書を読んでみてはいかがか。そう、冷えた「ラガー」を飲みながら。

静寂無音 No.782

日本人にとって8月は「祈りの月」でもある。6日は広島、9日は長崎に原爆を落とされ、12日は日航ジャンボ機が墜落し、13~16日は盆、15日は終戦の日。そのたびに実際あるいは心の中で、頭を垂れ、手を合わせ、しばし黙祷する機会が多かった。

黙祷していると、普段は気付かなかった、身を包む周囲のさまざまな音に気が付くものだ。野外なら、「シャーシャーシャー」と鳴き続ける蝉の声や、風に乗って届く車のエンジン音、タイヤ音。会場が室内なら、辛抱できなくなってそれでもできるだけ抑えた「コホン」という小さな咳払いや、時には隣人の息遣いさえ。

米国の音楽家ジョン・ケージが1952年に作曲した曲に「4分33秒」がある。同年8月にウッドストックでピアニストのデイヴィッド・チュードアが“演奏”したのが、世に知られるようになった初演とされる。

「演奏した」と書いたが、チュードアは演奏中、一度も鍵盤に指を触れていない。彼は、舞台に登場し、ピアノの前に座り、鍵盤の蓋を開けると、そのままじっと座り続け、4分33秒後、鍵盤の蓋を閉め、椅子から立ち上がって、退場した。

初演時の楽譜は残っていないが、1960年に出版された楽譜では、3楽章から成るこの曲に音符はなく、各楽章に「Tacet(休止)」と作曲者ケージの指示が書かれている。チュードアは譜面通りピアノの鍵盤の蓋を開けた後、第1楽章を33秒、第2楽章を2分40秒、第3楽章を1分20秒演奏し、蓋を閉じた。その合計が4分33秒だったから題名が以後「4分33秒」になったもので、原題は「  」だったとも言われる。

ともあれしかし、聴衆はその時、「何も聴こえなかった」わけではなかろう。ピアノ鍵盤の蓋を開ける音、閉める音、それに聴衆の咳払いや、空気が流れる音までも。

作曲家・芥川也寸志は著書「音楽の知識」(1971年初版)に書いている。

「休止はある場合、最強音にもまさる強烈な効果を発揮する。われわれがふつう静寂と呼んでいるのは、したがってかすかな音響が存在する音空間を指すわけだが、このような静寂は人の心に安らぎをあたえ、美しさを感じさせる。音楽はまず、このような静寂を美しいと認めるところから出発するといえよう」

いま一度目を閉じ、静寂な音に耳を澄ませ、気持ちを新たにして、夏休み明けの仕事に、さあ取りかかろう。

「たいまつ」の火を No.783

「最も尊敬する人は?」と筆者が訊かれたら、迷わず挙げるのはジャーナリストむのたけじ(本名・武野武治)さんの名だ。21日、老衰で亡くなった。101歳だった。

1915(大正4)年、秋田県の農家に生まれた。旧制中学から東京外国語学校(現・東京外語大学)に進み、卒業。報知新聞を経て朝日新聞に入社し、戦時中は従軍記者として中国、東南アジア特派員を歴任した。 しかし、日本が無条件降伏した1945(昭和20)年8月15日、むのさんは朝日新聞を辞めた。「負け戦を勝ち戦のように伝え、国民を裏切ってきた責任を取るため」に。

3年後、秋田県横手市でタブロイド判(全国紙の半裁サイズ)の週刊紙を創刊。1978(同58)年に第780号で休刊するまで、一貫して反戦・平和を訴え続けた。その新聞に彼が付けた題字は「たいまつ」。「わが身を焼いて暗闇を照らす」の思いを込めた。

87歳で胃がん、92歳で肺がん。心臓に水が溜まり、眼底出血もして「身体はガタガタ」。しかし「ノミに食われたほども感じていない。機械だって長年使えば壊れる。特にどうということも」と、健筆を揮い続けてきた。

2015年7月出版の「日本で100年、生きてきて」(朝日新聞社)が最後の著書になった。いまも悔やむ従軍記者時代への反省から、多く並ぶのは自戒の言葉だ。

▽大きく思える問題に直面したら、形の大きさにおびえるな。そこにある小さいもの、弱いもの、薄いもの、軽いものに注目せよ。問題解決のカギはそこにある。

▽中途半端な態度はやがて全部をこわす。やらないと決めたら、指一本動かすな。やると決めたら、トコトンやり抜け。

▽社会が困難に直面すると、人びとはいつも英雄待望に走った。けれどもすべては無駄だった。他人依存はすっぱりと断ち切る。

▽70億人の人類の中にあなたはあなた一人だけ、わたしは私一人だけ。世界中の科学技術を集めても同一人間の再生は不可能だ。まったくかけがえのない生命、それが人間だ。そのことに責任と誇りを貫けば、力はこんこんと湧いてくる。あきらめることをあきらめてまっすぐに努力すれば人間の願いはきっと実を結ぶ。(抜粋)

むのさんの言葉はシンプルでも、守り切るのは容易ではない。進む道を二度と誤らないよう彼が掲げてくれた「たいまつ」の火を、灯し続けるのは私たち次世代の役目だ。