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折り鶴 No.772

「伊勢志摩サミット」終了後、現職の米大統領として初めて被爆地・広島の地を踏んだオバマ大統領は、慰霊碑に献花する直前に原爆資料館を訪ねた。ただ、原爆の悲惨さをじっくり見てもらいたかったのに、資料館での滞在はたった10分。その短さを正直言って不満に思っていた。しかしその折り、館内ではこんなことがあったそうだ。

館内に展示されている、原爆に被災し10年後に亡くなった少女・佐々木貞子さんが療養中、病室で折っていた千羽鶴の一部が展示されているのを、顔を近づけじっと見ていたオバマ大統領が、「実は … 私も持ってきました」と、随行員に預けていた4羽の折り鶴を差し出したという。「少し手伝ってもらったけど、私が折りました」と。

政治的パフォーマンスもあろう。しかし、「少し手伝ってもらったけど」と口にした正直さが嬉しかった。そういう政治家が、果たして日本にいるだろうか。

折り鶴 ――。日本の文献に「折り鶴」が現れるのは意外に遅く、天和2(1682)年の井原西鶴著「好色一代男」に初出が残る。しかし、折り鶴を千羽束ねた「千羽鶴」となると起源は不詳で、先の少女・貞子さんの療養生活を知った名古屋の高校生が昭和30(1955)年、お見舞いとして贈ったのが最初ではないかとの説もある。

広島平和記念公園には、貞子さんをモデルにした「原爆の子の像」が建ち、傍には日本全国だけでなく世界各国から送られてきた「千羽鶴」を展示するブースも設けられている。広島市によると、平成26年度には国内から年間877束、海外から688束、合わせて1565束の千羽鶴が寄せられたという。

ただ 、2つのことを思う。第1は、寄せられる千羽鶴の数が、最多時の平成15年頃に比べると国内で75%、海外では25%減っていること。第2は、毎年10トン近くに上る千羽鶴を処分するため、年間約1億円の税金が費やされていることだ。東日本大地震や熊本地震で、大量に届けられた千羽鶴に被災自治体が困惑していた話を思い出す。

さらに。お見舞いや恒久平和を祈りながら一羽一羽折られるべき千羽鶴が、最近はネット通販で売られ、1クリックで用意できる時代であることも私たちは知っている。それなら一束5000~2万円もする“好意”を、そのまま現金で寄付してはどうか。

そういう時代だからこそ、オバマさんが、たった4羽でも自ら折った鶴を携(たずさ)えて来てくれた心根が嬉しいのだ。私たちの国も、そういうリーダーを頂きたい。

新「笑点」 No.773

掲載誌をまだ読んでいないし、そもそも買ってまで読む気にもならない話題だが、落語家でお笑い番組「笑点」(日本テレビ系列)の「大喜利」メンバー・三遊亭円楽の「不倫」を、写真週刊誌「FRIDAY」最新号が報じている。

「笑点」といえば、近年体調が芳しくなかったのを押して「大喜利」コーナーの司会を10年間務めてきた桂歌丸(78)が先月末で下り、代わって、「大喜利」メンバーではキャリアが一番浅い春風亭昇太(56)が後継司会に抜擢され、話題になったばかり。そんなタイミングでの円楽のスキャンダルは、新メンバーとして若手・林家三平が加わった新生「笑点」の新たな門出を祝うことには決してならないから、やれやれと思う。

それにしても、「後継は円楽」という大方の予想を覆した昇太の新司会への起用は、最近あまり接しない、ちょっと愉快な話題だった。

1966年に放送が始まった「笑点」は、音楽番組「ミュージックフェア」(同1964年)に次ぐ今年50周年を迎える日本テレビ界の長寿番組。だからこそ、今回で6代目になる新司会者には、番組外からの起用も検討されたらしい。しかし「番組を100年続けていくには、やはり現回答者メンバーから選ぶべき」との結論に至り、かつてCSで放送されていた兄弟番組「笑点Jr.」(2011年終了)で司会経験もある昇太に決まったようだ。「後継は間違いなしと噂され、自分もその気だったと言われる円楽には、歌丸が『司会者より回答者のほうが生きる』と説得したらしい」(6日付「週刊現代」)。

歌丸は司会引退の会見で、「笑点」が長寿番組になり得た理由を3つ挙げた。第1は、レギュラー出演者の個性が確立していて、ブレないこと。第2は、出演者が自由に楽しんでいること。「『こういうふうにやってください』なんて(制作サイドに)一切口出しさせませんから。逆にディレクターを下しちゃったこともあります」とも。第3は、家族みんなで楽しめる番組を心掛けてきたことである ―― と。

最高40.5%(1974年)、現在でも平均15~20%という高い視聴率は、これらの基本を頑なに守り続けてきた成果であり、そこから見習い、汲み取るべき教訓は多かろう。

たかがお笑い番組。しかし、そこには人材の起用・登用、組織の運営、リーダーの育て方などの「極意」が詰まっている気がする。新「笑点」がこれからどう変わり、メンバーが新司会者をどう育てていくか ―― 楽しみながら、ご覧になってはいかがか。

「いないいないばぁ」 No.774

本の売れ行きが好調で増刷することを業界用語で「重版出来(しゅったい)」と呼ぶ、と4月の本欄で書いた。

ならば、1967(昭和42)の初版から今年5月2日の第316刷まで49年間で600万部という超々ロングセラー本を、一体何と呼べばよいのだろう。しかも、本文はたった20ページという、読めば1分とかからない極薄本なのに。文・松谷みよ子、イラスト・瀬川康夫による絵本「いない いない ばあ」(童心社刊)である。日本の「売れている絵本」ランキング1位の座を、ここ20年余譲らないというのもすごい。

誰かに「いない いない ばあ」をしてもらった記憶はなくても、乳飲み子をそうあやした覚えは、15歳以上の日本人全員にあるのではなかろうか。英語では「Peek-a-boo(ピーカ・ブー)」、フランス語では「Cache-cache cou-cou(カシュカシュ クークー)」、ドイツ語では「Gugus dada(グーグス ダーダ)」、イタリア語なら「Baobao cette(バオバオ シェッテ)」と言い方は違っても、動作はほぼ万国共通らしい。

新生児から3カ月頃までの赤ちゃんの感情は「愉快」か「不快」かのどちらかでシンプル。その後、「いない いない ばあ」遊びなどを繰り返すことによって、脳の前頭連合野にある「ワーキングメモリー」が刺激され、鍛えられることで、不安や期待、驚きや喜びといった感情が、多様化しながら育っていくことが分かっている。

スイスの研究者ジャン・ピアジェによると、乳幼児が大人たちがする「いない いない ばあ」に反応するのは、「対象の永続性」に対する認識能力を持ち始める生後8カ月くらいからとされる。「対象の永続性」 ―― 難しい言い方だが、要は、さっきまでそこにあった物がなくなったり、逆に、いままでなかった物がいきなり現れるといった「違い」を判別・認識することだ。

そんな「いない いない ばあ」は極めて単純な遊びだが、しかし、赤ちゃんにはとても大事な意味を持つ。例えば、ぬいぐるみなどの「物」を使って「いない いない ばあ」をするより、パパやママや誰か、つまり人間が「いない いない ばあ」をした時のほうがよく笑うというのだ。理由がある。「ばあ」と大人が手を広げて見せたと同じような笑顔を自分も作るように、赤ちゃんの脳が指令を送るからだ。

身内にせよ友人やご近所にせよ、赤ちゃんを「いない いない ばあ」とあやした記憶が絶えて久しい。幼児世代と大人世代の距離が、それだけ開いてしまったということか。子供をめぐる昨今の悲惨な事件の多発は、そこらに一因があるのではないか。

匂い優しい白百合の… No.775

男声カルテット「ダークダックス」の佐々木行さん(テノール担当、愛称マンガさん)が亡くなった。84歳。2011年に高見澤宏さん(トップテナー、パクさん、77歳)、今年3月に喜早哲さん(バリトン、ゲタさん、85歳)が亡くなっており、3人目の訃報。一人残された遠山一さん(バス、ゾウさん、86歳)の胸中を察するに余りある。

全員が慶応大学の男声合唱団のメンバーだった。たまたま1951(昭和26)年にクリスマスパーティで遠山、喜早、佐々木さんの3人が合唱を披露したのがきっかけで「ダークダックス」を結成、翌年に高見澤さんが加わった。共通の趣味がスキー。冬でも真っ黒に日焼けしていたことから、「黒いアヒルたち(ダークタダックス)」と自ら名付けた。

結成当初はジャズや黒人霊歌を歌っていたが、現在も東京・新宿にある歌声喫茶「ともしび」で歌われていたロシア民謡「ともしび」(楽団「カチューシャ」訳詞)を聴き、1956年にレコード化したのがヒットして、一躍注目されることになった。

「僕たちのヒットソングには、街や旅先で拾ってきた歌が多い」とゲタさんは著書「ダークダックス 歌の旅路」に書く。♪雪よ 岩よ われ等が宿り …… 米国民謡「いとしのクレメンタイン」に誰かが日本語の歌詞を付け、バスガイドさんが歌っていた「雪山讃歌」を旅先で聞き、1958年にレコード化して流行らせたのも彼らだ。当初不明とされた日本語の作詞者は、のちに第一次南極越冬隊長になる西堀栄三郎氏だったことが分かったが、ただしその西堀氏は、「誰が作ったとも知られずに歌われているのをひそかに聞いて、一人微笑んでいるほうが楽しかった」と話していたとの逸話も残る。

盛岡市で開かれた同窓会にメンバー4人が出席した時のこと。会場になった料理屋の店員が「地元では最近こんな歌が流行っているんですよ」と、やはり作詞・作曲者不明の歌を歌ってくれた。ゾウさんは、周りにあった箸袋を集めて開き、採譜したメロディと歌詞を書きとめて宿に持ち帰った。そして翌日、駅に見送りに来た大勢の前で、編曲し直したその歌を4人のアカペラで歌い、喝采を浴びたのだった。♪匂い優しい白百合の 濡れているよな あの瞳 …… 「北上夜曲」である。この歌もまた彼らによって見出され、世に送り出されたおかげで、のちに作詞・作曲者が判明した。

旧世代の郷愁(ノスタルジア)や感傷(センチメンタリズム)だと嗤わば嗤え。しかし、かつて人々の心を揺すり、愛され、口ずさまれた歌々の背景には、「物語」が、それぞれ秘められていた気がする。