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育て方 No.768

5月入り。今年の1/3が行き過ぎた。時の経つ早さに茫然とする。

先月にはオフィスに新入社員を迎えた企業も多かろう。毎年、新入社員の特徴をネーミングしている日本生産性本部は、今年の彼らを「ドローン型」と名付け、「風にあおられると心もとなく見え」「使用者(上司や先輩)の操縦ミスや使用法の誤りによって、機体を傷つけたり、紛失(早期離職)の恐れもある」と心配した。さて実際に迎え入れた諸兄ら先輩の、印象やいかに。無事に全員テイクオフ(離陸)できたろうか。

臨床心理学者・榎本博明氏が昨年12月に発刊した新著「ほめると子どもはダメになる」が読まれている。図書館で借りようと全国図書館を結ぶ蔵書検索サイト「カーリル」で調べたら、愛知県内で同書を所蔵している29図書館中24館で現在「貸出中」。その人気の高さこそ、子供を「褒めて育てる」か、それとも「叱って育てる」べきかを悩む親たちの、関心の高さを示しているといえよう。

その榎本氏は当然、著書名通り「叱って育てるべき」とする立場で、こう指摘する。「元来子どもに甘く、ともすると甘やかしてしまう習性が、私たち日本人にはある。江戸の子育て書をみると、子どもを甘やかすことへの戒めが目立つ。これは、戒めなければいけないほど、甘やかしが横行していた証左と考えられる」

たしかに江戸時代の儒学者・貝原益軒も、日本で最初の教育論を展開した「和俗童子訓(わぞくどうじくん)」で、「過保護」的子育てを厳しく戒めている。「およそ小児をそだつるに、初生より愛を過ごすべからず。愛過ぐればかえりて児をそこなう」「必ずその子を褒むる事なかれ。その子の害となるのみならず、人にも愚かなりと思われて、いと惜し。親の褒むる子は、多くは悪しくなり、学も芸もつたなきものなり」

親が子に対して権威を持たない「友だち親子」が最近増えていることを憂慮する榎本氏はまた、心理学者・林道義氏の考えにも共感し、本書に引用している。林氏は著書「父性の復権」(1996年刊)に書く。「『友達のような父親』はじつは父ではない。父とは子供に文化を伝える者である。伝えるとはある意味では価値観を押し付けることである。自分が真に価値あると思った文化を教え込むのが、父の最も大切な役割である」

「子ども」を「新入社員」、「父親」を「先輩・上司」と、そっくり置き換えても通じそうな現世相。旧世代が洩らす溜め息を、時代錯誤と嗤ってよいかどうか。

和える力 No.769

震災後、自粛していた熊本県のご当地キャラ「くまモン」が活動を再開した。

やんちゃっぽいキャラクターだけに、深刻な被災の現状にそぐわないのではないかと活動を控えていたが、最近「被災地へ来てくれたら嬉しい」「顔を見ると元気が出そう」という子供たちの声が届き始めた。

また、漫画「あしたのジョー」のちばてつや、「はじめの一歩」の森川ジョージ、「花より男子」の神尾洋子ら当代の人気漫画家が、それぞれ「くまモン」のイラストを使い応援メッセージを発信し始めたことも後押しし、被災地を慰問する形で活動を再開することになった。

「くまモン」の誕生は2010年。福岡―鹿児島を結ぶ九州新幹線の開通で、中間の熊本が素通りされる「通過駅」になってしまう恐れを心配した県が、地元の魅力をアピールしようと地元出身の放送作家・小山薫堂氏にアドバイザーを委嘱。小山氏がさらに友人のアートディレクター水野学氏にロゴのデザインを頼んだところ、水野氏が「オマケ」で描いた「くまモン」のイラストを会議に持ち込んだのが始まりになった。

そうして県の臨時職員に採用された当初の「くまモン」は、体型が現在よりスリムだった。2011年9月からは県営業部長の要職にあるが、食べ過ぎて太り、蒲島郁夫知事から「体重1㎏、体脂肪率1%」の減量を申し付けられたのにもかかわらず守れなかったため、一時期、営業部長代理に降格された経歴もある。

「くまモン」人気の背景には「日本がいま抱えている問題、解決しなければならない問題、今後向かうべき方向のヒントがある」と小山氏は指摘する。

「それは『慮(おもんぱか)る』、つまり周囲の状況をよく考えて行動する日本人独得の感性を大事にすることだ。木と紙で作った家で育ち、常に隣に誰かの気配を感じながら育ってきた日本人のDNAが、いまも残っているのではないか」

「日本人の心は『和』だが、『和』には3つの意味がある。1つは『和(やわ)らげる』。2つめは『和(なご)ませる』。そして3つめが『和(あ)える』。とりわけ『和える』は、異なる物や力を融合・調和させて新しい魅力を作り出すことで、そこにこそ日本人が得意とする文化がある」(2014年4月3日付「日経ビジネスオンライン」、抜粋・要約)

震災から1カ月。沈みがちな被災者の気持ちを和らげ、和ませるために活動を再開した「くまモン」。次は、罹災を免れた私たちが、和える力をどう差し伸べられるかだ。

“疾走したジジィ” No.770

演出家・蜷川幸雄さんが亡くなった。80歳。告別式では平幹二郎、大竹しのぶ、吉田鋼太郎、小栗旬、藤原竜也らが弔辞を読んだというその多彩な顔触れを見ただけでもう、蜷川さんが手がけてきた仕事の幅広さ、クオリティの高さがうかがえよう。

稽古場での、“厳しい”と言うより“過激”な演技指導で知られた。納得できない演技には、相手が誰であろうと「ヘタクソ!」「変態!」「ゴリラ!」「大根役者!」と怒鳴りつけた。「ロミオとジュリエット」に抜擢された女優・鈴木杏は「まだ花開いていない官能を表現して(セリフを)言えと指導され、悩んだ」とポプラ社刊「蜷川幸雄の稽古場から」に書いている。「だって当時の私はまだ15歳だったのに」と。

しかも、彼が演者に投げつけたのは、言葉だけではなかった。時には本物の灰皿や、靴を投げつけ、テーブルを蹴飛ばした。「でも僕は、高校では野球部だったから、人に当たらないように投げていた。本当にぶつけたいわけじゃなく、心理的な揺さぶりをかけていただけ」と弁解しているけれど(自著「演劇ほど面白いものはない」)。

本人は、画家になりたかったそうだ。だから東京芸術大学を受けた。しかし不合格。そんな時、たまたま観た「劇団青俳」の芝居に衝撃を受け、入団した。しかし――。

ある日、女優・太地喜和子から自分の演技にきついダメ出しを受けた。それに日頃から、自分が演出家なら、自分にこの役はさせないと思うようなことが何度かあったり、「芸術家を演じ得るほど個性的でもなければ、サラリーマンをやるほど普通でもないなど、自分の生き方に疑問を抱いていた」(前出「演劇ほど―」、抜粋・要約)ため、役者をやめ、演出家に転じることを決意したという。

テレビでの俳優・蜷川さんの演技を、リアルタイムで観た記憶がある。熱演していたが、例えば松田優作や高倉健のように、強い個性で圧倒的な存在感を漂わせるタイプの役者ではなかった。自身を「生まれつきの自意識過剰」(自著「演劇の力」) と分析する蜷川さんは、だからこそ自身の能力を自分に問い直し、その結果、演じる側から演じさせる側へと転じることで、本来の才能を自ら発掘し、開花させたのだと思う。

「創造的な仕事に対して冒険家であるような、過剰な老人でいたい。自分の仕事を容認せず、否定しながら、もっと先があると思いながら“疾走するジジィ”がいい」とも語っていた蜷川さん。

その生きざまから、学ぶことは多い。

「I'm sorry」 No.771

流行語は、若者文化から生まれることが多い。それも、善し悪しは別として「お笑い」文化が日常生活に広く浅く浸透したことから、いわゆる「芸人さん」たちが最初に口にした言葉や表現が、社会に広く伝搬し、根付くケースが増えている。

ジャンケンで何かを決める時の、いまや国民的コンセンサスになった掛け声「最初はグー」は、テレビ番組「8時だよ!全員集合」の出演者が収録後の飲み会で、最後に誰が勘定を払うかでモメた際、志村けんが言い出したのが最初だそうだ。また、見かけは明るく振る舞っていても性格は陰気な人を指す「根暗」は、タモリが、ある番組で自分をそう称したのが始まりだと自由国民社発行「新語・流行語大全」が認定している。

ほかに「天然ボケ」は萩本欽一、「元カレ」「元カノ」「元サヤ」「ツーショット」は「とんねるず」、「ドン引き」は土田晃之、「バツイチ」は明石家さんま、「逆ギレ」や「スベる」「ヘコむ」「ドS・ドM」「寒い(つまらなさ過ぎる)」「痛い(考え方がズレている)」「ドヤ顔」等々は「ダウンタウン」の松本人志が最初に言い出したとの説がネットに載る。あるいは、「ニューハーフ」という言葉の名付け親は、お笑い芸人ではないが音楽グループ「サザンオールスターズ」の桑田佳祐との説もある。

舛添要一・東京都知事の政治資金流用問題で最近あちこちで口にされている「セコい」も、鎌倉時代の辞典「名語記(みょうごき)」に「いやしき物をせこと名づく」とある「世故(せこ)」を、関西の露天商や芸人が、金銭感覚というより「客筋が悪い」「景気が悪い」といった意味の隠語として使い始めたのが全国区になったとされる。

舛添氏問題ではもう一つ、最近言われるのが「残念」という評価だ。といって、「ギター侍」芸人・波田陽区がかつて連発した「残念!」でもなければ、大事なチャンスを逃した時の本来の「残念!」でもない。せっかくいいものを持っているにもかかわらず、大事な部分がどこか、何か変、という意味合いで最近の「残念」は使われる。お笑いタレント「千原兄弟」の弟ジュニアが、兄せいじをそう評したのが始まりだそうだ。

「さまざまな指摘を受け、多くの方々に心配とご迷惑をお掛けし、心からお詫びいたします」と舛添氏は何度も頭を下げる。しかし「I'm sorry」の「sorry」の正しい意味は「ごめんなさい」ではない。「残念だ」とか「心が痛む」の意味だ。

舛添氏の歯痒い釈明を何度も聞かされる私たちこそ、残念な思いで心が痛む本来の「I'm sorry」なのだ。