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「福の神」 No.723

「芳賀四郎」さんは東北・仙台市では有名な“ローカル・スター”である。飲食店をはじめとする多くの店の店内のどこかで、にこやかに笑っている彼の写真を発見するチャンスが少なくないはずだ。時には神棚の傍に飾られていたりして。

四郎は1855(安政元)年、仙台藩の城下町仙台の、鉄砲鍛冶職人の4男として生まれた。しかし7歳の時、友達と花火見物に行った広瀬川で川に落ち、溺れた。幸い命は取り留めたものの、その時しばらく意識を失っていたのが災いしたのか、知的障害になり、言葉も不自由になった。

しかし、彼はその後も笑顔を絶やさず、にこやかに人に接しながら成長していった。町内を毎日ぶらぶら歩きながら、例えば商店の店の脇に竹ぼうきが立て掛けられているのを見ると勝手に店の前を掃除したり、店先に柄杓を入れた水桶が置かれていると、やはり勝手に店の前の道に水を撒いたりした。そんな四郎に「ありがとうね」と声を掛けてお菓子を与えたり、奥に呼んで食事をさせる店もあった。

そうこうしているうちに、町の人々が気が付き始めた。四郎が立ち寄るお店は、なぜかみんな繁盛していることに。そこで、誰とはなしにこう言い始めた。「四郎は、まるで『福の神』のようだ」と。

そんな評判が広まると、「それならウチにも」と、店の軒先に見えるように箒を立て掛けたり、水桶を置いたりする店が出てきた。しかし、そんなふうに四郎を招き寄せる魂胆で小細工をした店には、彼は決して近づこうとしなかった。

大正時代に仙台市内の写真館が撮ったとされる、着物姿で懐手をし、笑いながら座っている彼の写真が現在も残る。その後、写真の複写や手書きの肖像画、また陶器製の人形などさまざまなアイテムが、「仙台四郎」といういわば統一ネーミングで作られ、客寄せの「福の神」グッズとして現在も多くの店に飾られているのだ。

しかし、「仙台四郎」は本当に「福の神」だったのだろうか?

答えは「ノー」だろう。なぜなら、彼自身が客を招く特別な能力を持っていたわけではないからだ。客を呼び寄せたのは、彼の力というより、知的障害を持ってしまった人を遠ざけたり疎んじたりしなかった店の、優しい気持ちや心配りの賜物だったのだ。

「福の神」は、「待つ」ものではなく、自身の心の中に「居る」ものだと考えたい。

「非注意性盲目」 No.724

1990年代に米国の大学で行われた実験。学生10人に「これから、バスケットのボールを白シャツチームと黒シャツチームが奪い合う短いビデオを見せます。白シャツチームがボールを何回パスしたか、数えてください」と伝えた。ビデオを見終えた学生たちに訊いた。「白シャツチームがパスした回数は?」 全員が正解を口にした。すると、実験者が再び訊いた。「その通りです。では、ほかに何か気付いた人は?」

怪訝な表情の被験者たちに、実験者が言った。「途中でゴリラが出てきたでしょ?」 全員「ゴリラ? いなかったよぉ、ゴリラなんか、絶対」 しかし、ビデオを見直すと、画面左から着ぐるみのゴリラが現れ、中央で立ち止まって胸を叩いた後、画面右へ消えて行った。そのことに、10人も見ていた誰一人として気付かなかったのだ。

米心理学者クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ両教授による共著「錯覚の科学」(木村博江訳)に載る実験「見えないゴリラ」で示されたこの現象を、心理学では「非注意性盲目」と呼ぶ。すなわち「あることに集中していると、別の予期しない出来事や、集中していないことの変化には気が付かない」。

類似現象に「カクテルパーティ効果」と呼ばれる「選択的注意」もある。周囲がかなり騒々しくても、神経を集中し耳を澄ませば、私たちは目的の声や音を聞き分けられることだ。ただし。その「選択的注意」能力が、逆効果に作用する場合がある。

携帯電話で話しながら車を運転すると、事故を起こす危険性が、そうでない時の4倍高くなる。ハンズフリーキットを使用していても、そのリスクはほとんど変わらないそうだ。それなのに、助手席の誰かと話をしながら運転している場合は、ほとんど悪影響がないという。なぜなら、注意が必要な危険な場所・場面に差しかかった際、運転者が急に口をつぐんでも、隣に居てその事情を分かっている同乗者は会話を中断し、話を続けることによって運転者に与える無意識のプレッシャーを避けるからだ。

先の「錯覚の科学」で、著者はこうも書いている。「リーダーを選ぶ時、候補者の中で一番自信ありげな人物を選ぶのも、錯覚の影響である」 国会に呼ばれた憲法学者が、安保関連法案の改正を、揃って「憲法違反」と口にした。にもかかわらず、事を強引に進めようとする最近の為政者の姿勢を見ると、それは私たちが、リーダーを「錯覚」して選んでしまったせいではないかと不安になる。

18歳選挙権 No.725

選挙権年齢を18歳に引き下げる改正公職選挙法が参議院で可決され、成立した。選挙権年齢は1945(昭和20)年、それまでの「25歳以上の男子」から「20歳以上の男女」へと、年齢引き下げと女性の参政権が認められて以来70年ぶりである。

今回の改正法は6月中に公布、1年後に施行されるため、来年7月に任期が来る参議選から、約240万人(全有権者の約2%)が新たな有権者に加わることになる。

選挙権年齢が今回引き下げられた背景・理由には、以下の4点が挙げられよう。

第1は、選挙権年齢は「18歳以上」とするのが「世界標準」であることだ。国立国会図書館の調べでは、世界191カ国・地域中176カ国・地域(92.1%)で18歳以上に選挙権を与えられている。さらにブラジル、ノルウェー、オーストリア、ドイツ、スイスなど国や自治体選挙での投票権を「16歳以上」としている国もある。

そうした世界標準に鑑み、日本でも昨年6月に国民投票法を改正、その投票権年齢を「18歳以上」に引き下げた際、国政選挙などの選挙権年齢についても「2年以内を目途に法整備をする」と付帯決議しており、それに対応したことが第2の理由。

第3は、現状著しい投票率の世代間格差を是正する意味合いだ。昨年の衆院選で20~24歳の投票率は29.72%と、70~74歳の72.16%など他世代に比べ低さが際立った。こうなると、選挙で1票でも欲しい政治家が政策を立案・議論する際、棄権が多い若年層より票に結び付きやすい高齢層を意識するのは人情。その結果生じる「シルバー民主主義」と呼ばれる政策の偏りを正す効果が、選挙権年齢の引き下げにはある。

さらに、多くのジャーナリズムが指摘するのが次の第4点だ。▽安倍首相が選挙権年齢引き下げに積極的なのは、憲法改正の環境を整え、機運を盛り上げたい思惑があるからだ=日本経済新聞 ▽選挙権年齢を引き下げれば、法整備の面でも政治的な意味合いでも、憲法改正に向けた環境整備が一歩進むという判断が総理にあったとみられる=NHK ▽選挙権年齢が引き下げられれば、改憲に向けての環境整備が一歩進むことになる=信濃毎日新聞 ―― つまり選挙権年齢引き下げは、国民投票による憲法改正を見据え、反戦意識が高い高齢層より低い若年有権者を増やすことに最大の目的があったと。

であるならばよけい、新しく有権者になり戸惑いを隠せない若者たちに対して、何をどう語り、教え、伝えていくか、私たち大人の役割がますます重要になったと言える。

弱き者、汝の名は… No.727

夕飯を食べ終わって、妻が夫に「お皿、流しへ運んでもらえる?」。 夫「いいよ」 妻「できれば水に漬けておいてくれるかなあ」 夫「あいよ」 妻「ありがと。……。ついでに洗ってくれると助かるんだけどな」 夫「…… はいはい」―― 男性読者は身に覚えがあろう。お願いは、小さなことから始めると受け入れてもらいやすくなる。ドアの内側に足を入れることができれば売り込みは半ば成功したようなもの、という意味から「フット・イン・ザ・ドア」と呼ばれるセールスマンのテクニックである。

人間には、「自分の行動に矛盾を生じさせたくない」と考える「一貫性の法則」と呼ばれる心理がある。最初に「いいよ」と答えた自分の言動を修正・否定したくないから、次の更なる要求に不承不承でも応じてしまうのだ。

逆パターンの「ドア・イン・ザ・フェイス」もある。妻「夏休みにハワイに連れてってぇ?」 夫「無理だよ。今からじゃ予約取れないし」 妻「そっかあ。なら、東京ディズニーランドは?」 夫「うーん…… いいよ」 最初に大きな頼み事をすると、後から出した実は本命のお願いを聞き入れてもらいやすくなる、という手だ。

これは「コントラスト(対比)の原理」が働くからだそうだ。例えば高級腕時計を買いに来た客に、まず100万円級の時計を見せる。客が尻込みしたら、本当は最初から勧めようと思っていた数十万円級を出してくる。するとすんなり買ってもらえることが多いのは、価格差のコントラスト効果が作用するためらしい。

こんな実験もある。街頭で通行人に一輪のバラを差し出す。受け取った人に寄付をお願いすると、応じる人が多いそうだ。「人は何かを与えられると、何かを返さなければいけないと恩義を感じる」という心理は「返応性の法則」とか「返報性の原理」と呼ばれる。食品売場で行われる試食販売は、その応用テクニックである。

さらに「ローボール・テクニック」をご存知だろうか。キャッチボールの練習では、最初は捕球しやすい低さに投げていたボールを、だんだん取りにくい位置に投げることによって、難しいボールでも捕れるようになる。そこで ――。客が一度買うと決めた商品について、「あいにく、いま在庫がない。でも1ランク上の商品なら、すぐ渡せる」と伝え、後者を買わせてしまうのは、「ローボール・テクニック」の応用だそうだ。

さまざまな心理を聞いて、つくづく思う。人間は、なんと意志弱き生き物かと。