2013年12月のレーダー今月のレーダーへ

視点No.650

作家・適菜収氏が「週刊文春」の連載コラム「今週のバカ」で韓国・朴槿恵(パククネ)大統領を俎上に乗せ、こき下ろしたことに大統領府関係者が反発し、話題になった。

曰く「キャパシティが小さいので、すぐに爆発してしまう。一流大学出身で無駄にプライドが高いので、一度言い出したことをうまく収めることができない」「思慮が浅いというか、微笑ましいというか、自分が信じている正義を一方的に叫ぶだけなら子供と変わらない」――その程度までにとどめておけばよかったろうに、適菜氏はさらに書き込んだ。「朴槿恵は人から愛されたことがないのではないか。それでつい攻撃的になってしまう。そんな彼女の気持ち、甘酸っぱいパッションをしっかり受け止めることができる大人の彼氏の出現が今求められているのではないか」

適菜氏はこれまでも同コラムで小泉元首相を「帰ってきた売国奴」、安倍首相を「見識の欠片もないボンボン」と斬り捨ててきた。しかし、相手が他国の宰相となれば話は別だろう。たとえ本質を衝いていようといまいと、そこはやはり表現に一定の配慮・礼節があって然るべきではないかと、旧世代タイプの筆者は思う。

ただ、適菜氏の著書には「なるほど」と合点する指摘も少なくない。「マスコミ報道に流されやすくて『比較的』IQ(知能指数)が低い、今の時代を象徴するような愚民」を「B層」と名付ける適菜氏は、著書「日本をダメにしたB層の研究」の中で、例えば裁判員制度について「文明を否定する制度です」として、こう書いている。

「司法に民意を導入してはならない理由は、法の根本に正統性の問題があるからです。移ろいやすい民意を組み込めば、『法の下の平等』『先例拘束の原則』が成り立たなくなる。だからこそ司法は、プロ、専門家、職人が扱わなければならない。裁判に『民意』を反映させることは歴史を破壊するということです」

「法律を扱うのは法律家であるべきだし、政治を扱うのは政治のプロでなければならない。しかしB層社会は、こうした『当たり前のこと』を許容しません。あらゆるプロ、職人の領域に『素人の意見』を押し付けようとする。そろそろ目を覚ますべきでしょう。今求められているのは理念を語る革命家でも閉塞感を打ち破る新しいリーダーでもありません。過去と未来に責任を持つ人間、正気を保っているプロ、職人です」

やや感じる思想的偏りは各自で斟酌するにせよ、読んでおいて悪くない一冊と思う。

和食の「文化遺産」登録No.651

もしかすると今年は「おせち料理」の注文が、例年より増えているのだろうか。先ごろ「和食」がユネスコの「無形文化遺産」に登録されたことに触発されて。

ただ今回の「和食」の「無形文化遺産」は、誤解されている部分が少なくなさそうだ。

ユネスコが主催する世界的“遺産”の登録は3つある。第1は、ペルー「マチュピチュ」やカンボジア「アンコールワット」など歴史的に重要な有形の文化遺産(=不動産)の保存継承を目的にした「世界遺産」。第2は、人類が後世に残すべき世界的に意味のある書物や記録物(=動産)を対象にした「世界の記憶」(俗に「世界記憶遺産」)。

3つめが今回の、2006年から始まった新しいカテゴリーの「無形文化遺産」である。その定義を簡潔に言えば、「世界的に珍しい民俗文化財や風習・習慣、口承芸能の保護」ということ。しかし先の「世界遺産」ほど厳格な審査基準はなく、日本ではこれまでに能楽、歌舞伎、雅楽、小千谷縮・越後上布、結城紬など22件が登録されている。

とはいえ「無形文化遺産」登録の「和食」となればやはり、料亭や割烹でしか食べられないような高価で上品な日本料理をイメージするが、それは誤解らしい。今回登録された「和食」は、要は①季節の食材を使い、②日本特有のダシなどで味付けした、③一汁三菜を基本とする家庭料理で、④家族で食卓を囲み、「いただきます」で始まり「ごちそうさま」で終わる日本の食事文化――を指すのだそうだ。どうやら昭和30年代の日本の、一般家庭の食事風景をイメージすると分かりやすいらしい。

自身も料理人の作家・樋口直哉氏が、ネットに書いている。(今回登録された『和食』は)「乱暴に例えるなら『サザエさん』の世界。それは僕にはもはや幻想に見える。家族が卓袱台を囲んでいる風景は『おふくろの味』と呼ぶにふさわしいかもしれないが、我々はもうその時点に戻ることはできない」

現代は「3つの“コ食”」の時代と言われる。いわく①一人暮らしや、家族一緒に住んでいても食事は一人ずつ摂る「孤食」 ②家族みんなで食卓を囲んでも、各自が別々に自分の好きな物を食べる「個食」 ③いつも自分が好きな物しか食べない「固食」だ。

歪んでしまった日本人の食生活が、今回の「文化遺産」登録で見直されるきっかけになり得るかどうか。今回の「和食」登録は、関連業界がブーム盛り上げを狙ったような商業主義的“隠し味”を舌の奥の後味に感じる、と言っては勘ぐり過ぎだろうか。

木魚No.652

「街に響く雲水の読経」――そんな見出しの新聞記事に目が止まった。曹洞宗大本山・永平寺がある福井県永平寺町内で、年末恒例の一斉托鉢が始まったらしい。

托鉢に出る場合は使わないが、読経に欠かせないのが木魚。その木魚が現在、国内では愛知県一宮市周辺のわずかな工房でしか作られていないことを最近知った。

「木魚」と言う割には、一見、魚らしくない木魚。しかし中国の禅僧・隠元隆琦が1661年に開いた京都府宇治市・万福寺に現存するその原型を見ると、なるほどとその謂れに納得しよう。斎堂(=食堂)前に吊り下げられているそれは、口に珠を咥えた、長さ2m近い巨大な木彫りの魚。「魚鼓(ぎょく)」とか「魚板」「飯梆(はんぱん)」とも呼ばれ、僧らに食事時間などを、木槌でこれを叩いて知らせるためのものだ。咥えている珠は「煩悩」だそうだ。

その「魚鼓」が現在の木魚の姿形や用途へどう変化して行ったかは定かではないが、ともあれ寺院などの大きな木魚には、2匹の魚が1つの珠を咥えたデザインが多い。ほかにも魚ではなく龍や鯱が彫られた木魚もあるが、魚からの進化形だそうだ。 でも基本はなぜ「魚」なのか? 答えは「魚は目を閉じない」からだ。読経の最中に眠くならないよう、咥えた珠=煩悩を吐き出すように、経を読みながら木魚を叩くのだ。

一宮市周辺での木魚づくりは、明治時代に京都で修行した職人が戻ってきたのが始まりとされる。近くの名古屋には東本願寺や西本願寺の別院はじめ多くの寺があり、市内の大須周辺には仏壇仏具問屋街が軒を並べるという立地条件の良さから、一宮周辺の木魚工房は最盛期には30軒を超えたとされる。それが現在は6軒だけ。とくに寺院用の大型の木魚を作る工房は、わずか1軒だけになってしまった。

衰退した第一の理由は需要の減退。第二は安い中国産に対抗できなくなったことだ。木魚は、原木を木取りし荒削りした後、10年ほど自然乾燥させる。充分乾いた後、開口部から長いノミで内側を少しずつ削って空洞にし、最後に、良い音が出るよう調整する――という工程に、本来なら15~20年間を要する。それだけ手間暇をかけないと、徐々に音の響きが悪くなったり、ヒビが入ったり、最悪は割れてしまうこともあるからだ。

それなのに、「最近は、ヒビ割れしてしまった中国産の修理が多くてね」と、ある木魚工房の主人は電話口の向こうで寂しそうに笑った。日本の物づくりの、せっかくの技術・文化が廃れ行く姿をこれからも見続けなければならないとしたら、辛い。

1年の終わりにNo.653

年初に掲げた「一年の計」が、今年も「計」のまま終わろうとしている。結局「仕事人間」だけで過ごしてしまった自分に苦笑し、ちょっと自己嫌悪する時期。

歯科医だがセラピストや経営コンサルタントでもある井上裕之氏の近著「1%の人だけが実行している45の習慣」を読んだ。人生がうまくいっている人は1%足らず。自分もその1%になりたくて頑張っているのに、成果が上がらないのはなぜ? 自分には何が足りないのか?……「成功する1%」と「成功できない99%」の人の違いが表れる思考行動パターンとして井上氏は45項目を挙げる。抜粋・羅列すると――

▽(成功する)1%の人>自分の「良いところ」を大切にする×(成功しない)99%の人>自分の「ダメなところ」を過剰に意識する ▽1%>自分の満足感を大事にする×99%>他人からの評価を気にする ▽1%>コンプレックスを放置する×99%>コンプレックスに執着する ▽1%>「頑張ります」という言葉を使わない×99%>「頑張ります」とよく口にする ▽1%>すぐやろうと決めて、すぐ行動を起こす×99%>すぐやろうと思うだけで、なかなかやらない。

▽1%>ミスはすぐに忘れる×99%>ミスした自分を攻め続ける ▽1%>自分自身と競争する×99%>他人との競争にこだわる ▽1%>人からの批判は成長の糧と考えている×99%>人からの拒絶や批判を恐れて内にこもる ▽1%>滅多なことでは怒らない×99%>怒りを抑えきれずに後悔する ▽1%>相手が話し終わるまでひたすら聞く×99%>相手の話を聞いているようで聞いていない ▽1%>トラブルを起こした相手を責めない×99%>トラブルを起こした相手をつい責めてしまう。

▽1%>自らを成長させるためにお金にこだわる×99%>お金にこだわるのは賤(いや)しいことだと思っている ▽1%>自己投資にお金を惜しまない×99%>自己投資に積極的でない ▽1%>笑顔をいつも絶やさない×99%>気分にムラがある ▽1%>心の底から「ありがとう」を言う×99%>「ありがとう」に気持ちがこもっていない ▽1%>楽しみながら努力を続ける×99%>歯を食いしばって頑張る――等々。

もし後者に心当たりが多いなら、読めば来年取り組むべき「計」が見えて来るかも知れない。弊紙は今日が本年の納刊号。読者各位に一年のご愛読を深く感謝するとともに、来年のご多幸を心からお祈り申し上げたい。どうか良いお年を。