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印鑑社会・日本No.625

「印鑑を持ってくるのをうっかり忘れた市民に、出直しさせる不便を不思議に思わない体質がある」――熊谷俊人・千葉市長が先週、自身のツイッターで「役所文化の象徴・印鑑」の弊害に触れた。内部での決済を今後は自筆サインに改めるよう指示したところ、印鑑業界だけでなく市役所内部からも異議の声が上がっている。

印鑑は紀元前3500年前、古代メソポタミアでシュメール人が生み出したとされる。中国を経て日本に伝わったのが大化の改新の頃。江戸時代には現在でいう自筆のサイン「花押」が用いられたが、明治6(1873)年の太政官布告で、実印が押されていない公文書は認められなくなった。以来、中国ではすでに廃止され、韓国もその方向にあるというのに、日本では現在なお深く根付く世界でも極めて珍しい「印鑑社会」だ。

「印鑑社会」に功罪はある。例えば、毒劇物指定の農薬を買うには印鑑が必要だ。しかし、印鑑を持って来た本人を特定する身分の証明は無用なのだから、制度の意味がよく分からない。あるいは、ストーカーに知らぬ間にハンコを押されて婚姻届を提出され、戸籍に記載されてしまうと、場合によっては家庭裁判所に提訴し婚姻無効の確定判決を得なければ婚姻は取り消されない。極めて理不尽な現実といえる。

では、印鑑に依拠した諸手続きを全廃し、諸外国のように本人の自筆サインに切り替えたらどうなるのか。例えば、ATMでの取り扱い限度を上回る額のお金の引き出しを、妻に印鑑と通帳を預けて頼むことができなくなるから、自分が勤務時間中に銀行窓口へ出向かなければならない。会社内でも、出張で不在の責任者が帰ってくるまで、決裁のサインが滞る。第一、サインに不慣れな日本人は書くたびに字が違ってしまうため「本人」と認定されにくく、むしろ混乱やトラブルを引き起こしそうだ。

経営コンサルタント・小久保厚郎氏が痛烈に皮肉っている。「(印鑑による決裁を)止めたらよいと言う人がいるが、勘違いしているのではあるまいか。これは『不正』を見逃すためには最適な仕組みとして合理的なのである。ハンコを忘れても100円払えば(三文判で)あとはうまく処理してくれる。誰もそれを、正すべき『不正』とは感じまい。これこそが日本の組織文化の本質なのだ」と。手元の千円・五千円・一万円札を見れば分かる。印刷されていなければならない特段の理由はなさそうなのに、表には日本銀行「総裁之印」、裏には「発券局長之印」。まさに「印鑑社会・日本」なのだ。

共依存体質なのか?No.626

1941(昭和17)年生まれの71歳。東京大学法学部を卒業後、外務省に入省。在アメリカ日本大使館を皮切りに在オーストリア、在エジプト大使館書記官、本省条約局条約課長、アジア局長、外務審議官、在アメリカ特命全権大使等々を歴任し、2008(平成20)年退官。そうした輝かしい経歴のみならず、培われた幅広い見識、国際感覚、人望を高く買われたからこそ、推されて現職に就いたのだと思う。

その彼、加藤良三・日本プロ野球機構コミッショナーが、「飛ばないボール」をこっそり「飛ぶボール」に戻していたことがバレた事件で、記者団から糾弾されて答えた。「まったく知らなかった」「しかし(今回の事件は)不祥事だとは思ってません」 そう聞いた私たちは、日本人としての常識・良識をいったいどういう人物に託せばよいのだろうかと落胆する。

使用球の規格変更は、打者なら打率、長打率、本塁打数、投手なら被安打、被本塁打数成績に関係し、来期契約=年俸に大きく影響する。つまり「労働条件の変更に当たるから、変更するなら報告義務がある」と板倉宏・日本大学法学部名誉教授。国際条約にも関わってきた加藤氏が、その義務を、怠ったと言うより積極的に隠蔽してきた組織の過ちを「不祥事とは思わない」と平気で口にできる感覚を理解できない。 「12球団にも内緒にしていたというが、本当にそうなのか。多くのプロ野球人が同じ思いをしているはずだ」と某スポーツ紙。素人だがアンチ○○の筆者も同感である。

時津風部屋でのシゴキ死亡事件や八百長問題にみる日本相撲協会、セクハラ事件や助成金不正受給問題が明らかになった日本柔道連盟の対応など、ルール遵守に最も厳格であるべきスポーツ界で、トップの責任の取り方ならぬ逃れ方がたびたび問われる。

精神医学分野で「共依存」状態に関する「enabler(イネーブラー)」という用語がある。「enable+目的語+to do」は「~することを可能にする」の意味で、例えばアルコール依存症の人に、その症状を改善してやろうと献身的に尽くしたり手を貸すと、その行為がかえって依存状態の継続を可能にする方向に作用してしまうことがある。そのように結果的に「共依存」関係を生んでしまっている人を「イネーブラー」と呼ぶ。

もしかすると私たち日本人は、心優しい民族だからこそ、例えば「名誉職依存症」に陥ったトップを支えようとし、ひいては「共依存」関係を保つことによって自分の立場も守ろうとする「イネーブラー」的体質を組織内に生み易いのかも知れない。残念だ。

ランドセル俳人No.627

新聞・テレビの多くが取り上げ、十番煎じぐらいになりそうなので恥ずかしいのだが、それでも触れたいと思う一冊が小林凛の句集「ランドセル俳人の五・七・五」だ。

本名・西村凛太郎君。俳号の「小林凛」は、大好きな一茶の名字と自分の名の一字を取った。2001(平成13)年5月生まれだから、正真正銘、まだランドセルを背負っている現在小学6年生である。

▽紅葉で神が染めたる天地かな ―― 8歳7カ月で「朝日歌壇」に初投稿した句が選者・長谷川櫂氏の目に止まり、毎週約5000通に上る中の10句に選ばれたのが2010(同22)年12月。以来、▽ブーメラン返らず蝶となりにけり ▽影長し竹馬のぼくピエロかな ▽万華鏡 小部屋に上がる花火かな ―― など何度も入選。今年4月、初の句集を兼ねた「ランドセル俳人…」が出版された。

予定より3カ月早く生まれた時、体重は944g。医者には「命が持つか、3日間待ってほしい」と言われたそうだ。命は繋いだが、虚弱な体格・体力のため年に数度の入退院。成長しても運動が苦手で、動作が鈍かった。当然のように、小学校に入ると周囲の子供たちから乱暴に扱われた。叩かれ、つねられ、体はいつもあざだらけ。

学校に話しても状況が改善されないことを見かねた母・史さんは、同居する祖母・郁子さんと相談し、凛君が登校するのをやめさせた。同時に、彼が幼稚園の頃からなぜか興味を示していた俳句により親しめるようにと、季語や切れ字など作句のルールを入門書で自分も学びながら教え、できるだけ公園や野原に連れ出した。すると、▽帽子とび春一番の悪戯や ▽苦境でも力一杯姫女苑▽実石榴の音立てて割れ深呼吸 ▽無花果を割るや歴史の広がりて ▽乳歯抜けすうすう抜ける秋の風 ――。

作品を見せられた教師が「おばあさんが半分作っているのかと思った」と口にしたそうだ。正直に言うと、筆者も同感だった。たとえば▽法事済み一人足りなき月見かな ―― とうてい小学生が口にできる感性と語彙とは思えない。しかし、著書に載る、夕食後の母と彼の会話を読んで疑念は拭われた。「ねえ凛、俳句は余情・余韻の文学と本に書いてあるけど、この意味分かる?」と母に聞かれた小学生の彼が、こう答えたという。「お寺の鐘がゴーンと鳴って、うわんうわんと響くだろ? それが心に残ること」

実業家で書評家の成毛眞氏がネットに書いている。「生まれてはじめて12歳という孫のような年齢の人から力をもらった。これからもしっかり生きていこうと思う」

今読む一冊No.628

あえて言えば、読後の後味があまり良くない1冊と言えよう。なのだがそれは、経営コンサルタントの筆者が、自身の経験を通して実感した、企業社会が内包する実態や矛盾を、できるだけ正直に伝えることに努めたからではないかと察した。中沢光昭氏の近著「好景気だからあなたはクビになる!――知られざるリストラの新基準」である。

著者が本書を書き始めたのは今年春頃だろうか。「アベノミクス効果 販売や受注の改善相次ぐ」「国内景気拡大7割、個人消費けん引」など新聞には日本経済の復活を伝える見出しが躍っていた。しかしその時期に、中沢氏は本書をこう書き出している。「久々に景気が上向くムードに、どなたも胸を撫で下ろしているはず。しかし企業から見ると、現在のこの状況は、大胆な人員削減=リストラを断行する絶好のチャンスなのです」「企業の論理は、好景気=雇用安定ではない。業績回復の見込みができたため、これまでしたくてもできなかったリストラに着手するのです。アベノミクスがもたらした最大の恩恵は、大規模なリストラのチャンスを与えたことともいえる」

リストラには割増退職金など多額のカネが要る。不況期にはそれを用意できなかった企業が、リストラに本格的に手を付けるのはむしろこれから ―― これまで30社以上、合わせて2000人以上のリストラに直接関わってきたという筆者が、実戦で身に付けた嗅覚は敏感なのだと思う。だからこそ筆者は本書で、第3章「真っ先にクビが飛ぶ意外なターゲット」、第4章「一般社員は知らない人事決定の裏側」、第5章「人事権者の複雑な本音と建前」、第6章「来る大量失業時代への心構え」等々、紙幅の6割を割いてサラリーマンに向け「リストラに遭わないための企業内処世術」を説くのだ。

「上司を孤立させないことは部下の重要な仕事。かわいい部下になりましょう」「会社というのは、至る処にトラップが仕掛けられた“地雷原”と思って行動や発言をすべきです」「経営者の判断など、叩けばホコリなどいくらでも出てくるのです」「謙虚に働き続ける優れた部品であること。部品である以上、マシン(会社)が前進していくために働いて一定以上のパフォーマンスを示すこと。これがリストラを回避する社員の資質として最重要なのです」 サラリーマンにはいささか屈辱感を伴う表現が並ぶ。

だから、読み終わってハッピーな気分にはなれないかも知れない。しかし。そうした現実を腹に収めているか否かで何かが変わるなら、今読むに値する740円の1冊と思う。