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鋭い指弾No.578

まずは、以下をお読み願えまいか。

「福島原子力発電所事故は終わっていない。

これは世界の原子力の歴史に残る大事故であり、科学技術先進国の一つである日本で起きたことに世界中の人々は驚愕した。世界が注視する中、日本政府と東京電力の事故対応の模様は、日本が抱えている根本的な問題を露呈することとなった。

(略)日本でも(略)原子力発電所の事故があった。多くの場合、対応は不透明であり組織的な隠ぺいも行われた。日本政府は、電力会社10社の頂点にある東京電力とともに、原子力は安全であり、日本では事故など起こらないとして原子力を推進してきた。

そして、日本の原発は、いわば無防備のまま、3.11の日を迎えることとなった。

想定できたはずの事故がなぜ起こったのか。その根本的な原因は、日本が高度経済成長を遂げたころにまで遡る。政界、官界、財界が一体となり、国策として共通の目標に向かって進む中、複雑に絡まった『規制の虜(Regulatory Capture)』が生まれた。

そこには、ほぼ50年にわる一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」があった。経済成長に伴い、「自信」は次第に「おごり、慢心」に変わり始めた。入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たちにとって、前例を踏襲すること、組織の利益を守ることは、重要な使命となった。この使命は、国民の命を守ることよりも優先され、世界の安全に対する動向を知りながらも、それらに目を向けず安全対策は先送りされた。

(略)(原発事故)当時の政府、規制当局、そして事業者は、原子力のシビアアクシデント(過酷事故)における心の準備や、各自の地位に伴う責任の重さへの理解、そして、それを果たす覚悟はあったのか。(略)この事故が「人災」であることは明らかで、歴代および当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった。」(以下略)

福島第一原発事故を検証する国会事故調査委員会が5日提出した、641ページに及ぶ最終報告書の「はじめに」部分の抜粋である。鋭い指弾と格調の高さに胸打たれる。報告書全文もネットからダウンロードできる。国民の1人として、読んでおくべきではないか。

「物言い」No.579

郊外から名古屋市中心部へ車通勤している筆者は、いま名古屋の夏の風物詩を満喫させてもらっている。毎朝の出勤途上、大相撲名古屋場所が開かれている愛知県体育館近くを通り掛かると、「テテンコテンテン、テテンコテンテン」というやや甲高い櫓太鼓独得の音が、風に乗って聞こえて来るからだ。

本拠地・東京「国技館」の櫓は、現在は味気のない鉄骨造り。登り降りにはエレベーターを使うが、名古屋場所では、丸太を縄で締めただけで組む昔ながらの櫓が毎年建てられる。雨の日以外は、2人1組になった「呼び出し」が朝夕、太鼓を抱えながら五丈三尺(約16m)の櫓にほぼ垂直のハシゴを使って登り、朝は8時15分の開場に合わせて「寄せ太鼓」を、夕方はその日の全取組が終了し弓取式も終わるとほぼ同時に、まるで「テンデンバラバラ、テンデンバラバラ」と聞こえるような「ハネ太鼓」を叩き始める。楽譜はなく、先輩のバチ捌きを見真似・聞き真似しての伝承だそうだ。

「甲高い独得の音」と書いたが、いま定着しているのは「大阪流」で、昔の東京の櫓太鼓は「ドドンガドン…」という普通の太鼓の音だったことを最近知った。「東京流」が廃れた理由は不詳だが、「大阪流」に統一されたのは戦後になってからだそうだ。 発祥は2000年前とされる歴史ある相撲。それだけに、現在では広く使われるようになったが元は相撲に由来する言葉が「広辞苑には578語載る」と中央大学・飯田朝子准教授。言われてみれば、▽序の口 ▽胸を借りる ▽金星 ▽懐が深い ▽勇み足 ▽独り相撲 ▽褌かつぎ ▽巻き返し ▽痛み分け ▽死に体 ▽腰くだけ ▽仕切り直し ▽土地を踏む ▽土俵際 ▽八百長 …… 列挙しているうちにだんだん、わが国の政治状況を比喩しているように思えてくる現実が悲しい。

両力士がもつれるようにして倒れた微妙な勝負では、行司の軍配に土俵下の審判委員が物言いをつけるケースがしばしばある。実は、控えの力士も物言いをつけてよい ―― というより、控え力士には土俵上の勝負を監察する役割があることをご存知だろうか?実際、1996(平成8)年の一月場所九日目「貴闘力×土佐ノ海」戦では、控え力士の大関貴ノ浪(現・年寄音羽山)が5人の審判委員の誰よりも早く手を上げ、協議の結果、いったん土佐ノ海に上がった軍配は「差し違い」となり、貴闘力の勝ちが認められた。 昨今、私たち国民にも、「物言い」をつけたい事柄がヤマほどある。

「土用の丑」間近No.580

今年は19日が夏の「土用入り」、27日が「土用の丑の日」である。ただ「土用」とは立春・立夏・立秋・立冬の前の18日間のことで、期間中の「丑の日」は全部「土用の丑の日」だから、年4回もしくは今年のように5回あるのだが、日本人の頭にはとくにこの季節の「土用の丑」には「ウナギを食べるもの」とインプットされている。

発案者は、江戸時代の蘭学者・平賀源内との説が有力である。夏場の売り上げ不振に悩む行きつけのうなぎ屋から対策を相談されたため、古くからあった「丑の日には“う”の付くものを食べると縁起がいい」という言い伝えをヒントに、店先に「本日、土用の丑の日」の貼り紙を出させたところ、大当たりしたのだとか。

夏バテ防止にはビタミンの摂取が大事。その点、ビタミン類が豊富で、しかも消化吸収がよく胃腸に優しいウナギを、この時期に食べるのは理に適っている。ただ、ウナギが一番美味しいのは、産卵に備え栄養をたっぷり蓄えて川から海へ帰る途中の、秋から冬にかけた「下りウナギ」だとか。源内が妙なアイデアを提案しさえしなければ、本来の旬に、もっとおいしいウナギを食べられたのにと、うらめしく思わないでもない。

そのウナギの価格高騰が今年は話題になっている。従来はほぼ1年毎に増減していた稚魚のシラスウナギの漁獲量が、2009年の年間25トンから3年続けて10トン未満に落ち込んでいるためで、取引価格は逆に去年の87万円/kgから今年は250万円/kgへとほぼ3倍に高騰。このため養殖ウナギの生産者価格が2010年の2250円/kgから今年5月には5000円/kgへ、また築地市場での卸価格も前年比6~7割上がっている。

そのせいか、少々寂しいニュースを耳にする。「第4管区海上保安本部(名古屋)管内では、シラスウナギ密漁による摘発者が、昨春の3人から今年は14人に急増した」(産経新聞)、「浜松市の小中学校では毎年、土用の丑の日の献立にウナギの蒲焼きなどを取り入れてきたが、今年は8割近い学校で見合わせる」(NHK)等々。

ウナギ屋にとって「土用の丑の日」は掻き入れ時。それなのに100年余のノレンを誇る名古屋の老舗「I」は毎年、この日を休みにしている。「日頃商売させてもらっているウナギを、この日は供養したいから」と。「ウナギを食べるならI」と決めている筆者は、仕方がないから今年も「土用ウナギ」を諦めることにしよう。いえ決して、値段が高くて手を出せないからではなく……ということにしていただけるとありがたいのだが。

博学多才No.581

人口比で「喫茶店」数が最も多い県はどこか?――てっきり、豪華なモーニング・サービスの発祥地・愛知県かと思ったら、さに非ず。正解は高知県だった。高知は①人口が少なく本格的な専門料理店では経営が成り立ちにくいため、手軽な飲食店の喫茶店が増えた ②社会に出て働く女性が多く、食事作りなどの家事負担を軽くするための外食指向が強い、などが理由ではないかと高知新聞が自社サイトで分析していた。

――という豆知識は、小稿の下調べで偶然分かった“余談”。地元新聞の最近の記事で、「珈琲」という日本語表記は、大垣藩に縁ある蘭学者・宇田川榕菴の翻訳であることを知った。コーヒーの花が髪かんざしに似ていることから、玉飾りを表す「珈」と、玉をつなぐ紐の「琲」を組み合わせた榕菴の訳語なのだそうだ。

寛政10年、美濃国の大垣藩医・江沢養樹の長男に生まれた榕菴は、13歳で美作国の津山藩医・宇田川玄真の養子に、請われてなった。長男が養子に出ることが原則禁じられていた時代、養子に迎えられたのは、子供時代から一目置かれる賢才だったからだ。 榕菴がその後残した文献類は、「菩多尼訶経」「植学啓原」(植物学)、「舎密開宗」(西洋化学の解説)、「諸国温泉試説」(温泉質分析)、「西洋度量考」(度量衡の解説)、「昆虫通論」(昆虫学)、「可非乙説」(コーヒーの紹介)その他、極めて多分野に亘る。

その中で、榕菴が西洋の文献などを日本語に表す過程で生み出した言葉は、珈琲だけでない。元素、酸素、窒素、気化、酸化、中和、還元、溶解、花粉、細胞、成分、分析、圧力、結晶、温度、蒸気、沸騰、飽和、金属、装置、法則、澱粉、試薬、潅木、坩堝、容積……私たちがいま普段口にしている実に多くの訳語が、彼の手による。

本草学者の平賀源内はまた蘭学者、医学者、作家、画家、発明家でもあり、明和時代には歯磨き粉のPRソングの作詞作曲まで手掛けたという。レオナルド・ダ・ヴィンチは「モナ・リザ」の微笑みを描いただけでなく、彫刻、建築、土木、哲学、科学、医学、数学者でもあった。洋の東西を問わず、昔はそういう「博学多才」がいた。

いまあらゆる分野で細分化、専門化が進んでいる。科学技術を進化させるにはそれが時代の要請なのかも知れないと思いつつも、他方では、化学や物理、さらには自然観察としての動植物学や、絵画・音楽まで、本来は「博物学」として、世の中を広く俯瞰する視点と感性、知識が大事なのではないかと、榕菴の足跡を辿りながら思った。